地球沸騰化の時代
植村直己(1941〜1984年)は、日本人初のエベレスト登頂、世界初の五大陸最高峰登頂、アマゾン川約6000㎞の筏下りやグリーンランドからアラスカへ北極圏1万2000㎞の単独犬ゾリ走破など、数々の快挙を成し遂げ、冒険への憧れを人々の胸に刻みました。
それらを記録した植村の著作をひもとくと、例えば北極に臨んだときには、グリーンランドのエスキモーと1年の間生活を共にして、彼らから犬ゾリを扱う技術と極地を生き抜く知恵を学んだ様子が克明に描かれており、夢とも思える目的に向けて、気の遠くなるような一歩一歩があったことに、驚かされます。
そして、もうひとつ気づかされるのが、自然との向き合い方です。山や極地という厳しい自然の中に入るとき、植村のやり方は、その自然にどう合わせていくかというものでした。
植村には、体得したことを伝える野外学校を開くという構想があったといい、インタビューで編んだ『植村直己の冒険学校』という一冊を残しています。「凍傷」や「水を飲む」など50余りの項目について語りながら、そこでも、「自然への適応」として、自らの思いを述べています。それによれば、自然に対して打ち勝つとか、克服するなどということは、本当の意味ではあり得なくて、自然の中では、自分の都合ではなく、自然の中に隠されたルールを見つけ出し、それに逆らわず、どう順化し調和して、目的を遂げていくかが大切なのだそうです。
植村直己が挑み続けた自然はいまや大きく変化し、気候変動による極端な高温、干ばつ、巨大化する台風・洪水など気象災害が年を追うごとに深刻さを増しています。気候変動が地球温暖化によるものだということはもはや疑う余地のない事実であり、地球温暖化は、人間活動によって排出されるCO2やメタンなどといった温室効果ガスが主な原因であることはほぼ確実です。
1997年12月、京都府で開催された国連気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3、京都会議)で、温室効果ガスの排出に関する対策が初めて協議されました。削減する排出量の数値目標を先進国に課す国際的な枠組み、「京都議定書」が採択され、地球温暖化への中長期的な取り組みの第一歩として評価されたのですが、その後も世界の気温上昇は止まらず、2006~2015年の世界平均気温は、産業革命以前の平均値より0.87℃高く、陸域では1.53℃も高くなりました。
そのような状況を受け、2015年11月に開催されたフランス・パリでの国連気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)、京都議定書第11回締約国会合(CMP11)では、2020年以降の各国共通の目標として、気温の上昇を産業革命以前からの平均気温の2℃未満、努力目標として1.5℃に抑える「パリ協定」が採択されたのです。
しかしその後10年近くを経て、気候変動による影響は悪化の一途をたどっています。2023年7月、世界の月間平均気温が過去最高を更新する見込みであることを受け、国連のアントニオ・グテーレス事務総長は記者会見で、「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来しました」と強く警告しました。「地球の気温上昇を1.5℃に抑えて最悪の事態を回避することはまだ可能です。それには劇的な気候変動対策をただちに行うことが不可欠です」と一縷の望みを残す一方、「異常気象はニューノーマルになりつつあり、すべての国は灼熱や致命的な災害に対応し、国民を守らなければなりません。気候変動という大虐殺から命を救うために、適応への投資を世界的に急増させる時です」とも述べています。
また、私たちも、生活の中で生み出している環境負荷をしっかり認識して行動することが、いっそう大切になってくるといいます(巻頭インタビュー)。
植村がマッキンリー(現・デナリ)で消息を絶って、2024年で40年。かつて走破したグリーンランドの沿岸は、地球温暖化の影響でもはや犬ゾリは使えない状況です。災害級の異常気象に耐えなければいけなくなった今、植村だったらどんな工夫をするのでしょうか。