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ヘルシスト 289号

2025年1月10日発行
隔月刊


常に、これから

葛飾北斎(1760〜1849年)は、海外で最も著名な日本の画家と言っても過言ではないでしょう。平均寿命が50歳に届かなかった江戸時代後期に、北斎は数え90歳という長寿を得て、実に多彩な作品を残しています。

子どもの頃から絵を描くのが好きだった北斎は、貸本屋の小僧、木版印刷の版木彫りを経て、19歳で浮世絵師・勝川春章に入門。小説本や芝居絵本の挿絵の版下絵制作をしながら画業に打ち込み、やがて役者絵や相撲絵、美人画などの錦絵、そして一躍その名を広めた風景画、狂歌の、肉筆画、またドガやゴーギャンへも影響を与えたといわれる絵手本と、興味引かれるジャンルや様式に次々に挑んでは、まるで脱皮をするように、新たな境地を開いていったといいます。

その間にも、流派を超えて漢画や大和絵を学び、洋画の遠近法を探求。それらを積極的に取り入れ、油絵や銅版画のような趣の陰影や明暗を表した作品もあり、その技能に驚きます。

数々の逸話が、北斎が絵を描くことにのみ精進する反骨の士で、生活は質素、転居を重ねる変わり者だったと伝えますが、その精神は極めて柔軟で、進取の気性に富む人物だったのではないでしょうか。

亡くなる前の年に出版した絵画技術論をまとめた『繪本彩色通』のあとがきに、北斎は、「九十歳よりは又々画風を改め百歳の後にいたりては道を改革せんことをのみねがふ」と記しました。

一度、中風を患いながら、88歳にして眼鏡を使わず描くことができ、高下駄を履いて西両国から日本橋辺りまで平気で歩いたというのですから、北斎が類いまれなる頑健な体に恵まれていたのは間違いないでしょう。それに加えて、常にこれからに興味を抱き、変化することを楽しみとした心持ちが、北斎を長命たらしめたのではないかと思えてなりません。


小誌では、がん医療に関する最新の情報をシリーズで掲載しています。今号はがん治療における栄養管理をテーマにした「栄養治療」を取り上げて、さらに連載「細胞と遺伝子」(河合香織)では、京都大学大学院医学研究科の藤田恭之教授が哺乳類において初めて発見した、正常細胞ががん細胞を含む変異した細胞を認識し排除する「細胞競合」と称される仕組みを紹介しています。

これまで、遺伝子の変異によって発生したがん細胞のほとんどが免疫細胞によって認識、排除されると考えられてきました。しかし藤田教授によると、細胞競合は文字通り正常細胞と変異細胞の生存競争で、初期のがん細胞のほとんどは細胞競合によって排除されるといいます。がんの発生メカニズムの解明と、予防的治療法の開発につながる画期的な発見は、世界中から注目されています。

ただ、細胞競合が発現する異常細胞をどう認識するのかという確かなメカニズムは不明のままで、藤田教授の追究は終わっていません。

「もう1個ぐらい、まったく新しい研究を始め、科学者として真実に近づき、そして医師としてがん征服に力を尽くしたいと思っています」

葛飾北斎が「三十六景」を描いたのは72歳のとき。晩年の20年間に最も優れた作品を残しました。

「興味引かれるジャンルや様式に次々に挑んでは、まるで脱皮をするように、新たな境地を開いていった」北斎。藤田教授は、「アイデアは10個試しても1つくらいしかうまくいかない。データや対象を虚心にしっかりと見ることが、大きな発見につながるのだと思います」と語ります。

現状に満足せず、好奇心と失敗を恐れず、とにかくやることの大切さをあらためて感じさせられます。

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