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ヘルシスト 279号

2023年5月10日発行
隔月刊


見ることは、知ること

アントニ・ファン・レーウェンフック(1632〜1723年)は、今からおよそ350年前、肉眼では見えない微生物の世界を発見して、その名を歴史に刻みました。

レーウェンフックが暮らしたオランダの古都デルフトは、この時代すでに良質のレンズの生産で知られており、生地の品質を確かめるために拡大鏡を使う織物商だった彼は、やがて顕微鏡と出合い、「自作した顕微鏡で観察すること」のとなります。

好奇心に突き動かされるようにレンズの研磨の腕を磨き、昆虫やウシの眼、ヒツジやシカの毛、ハチの針やシラミの足、土やカビなど、身近なものの観察に没頭しました。ロンドンの英国王立協会へ紹介されると、ますます夢中になり、自作した顕微鏡は500台以上、400倍以上のレンズを使っていたともいわれ、自らを実験台に血液中の赤血球も発見しています。

そして1674年、冬は澄んでいるのに夏になると濁る湖の水に興味を持ったレーウェンフックは、肉眼では何も見えない湖の1滴の水の中に、大きさも色も形もさまざまな、自力で動くおびただしい数の小さな生き物(彼はこれをanimalculeと名づけた)を見つけたのです。

この後もレーウェンフックはや唾液、傷口の、ふん尿、毛細血管など多くのものの観察に取り組み、同じように微小生物を発見したり、痛風患者の発症部位に尿酸塩の結晶を発見しています。そして90歳で亡くなる直前まで、その類いまれな根気で繰り返した観察の記録を300通に及ぶ手紙にしたため、王立協会へと送り続けたのです。

レーウェンフックは著作や論文を残していませんが、王立協会へ送った手紙は書簡集として出版され、人々が知るところとなりました。当時はこれらの観察や発見が、すぐさま何かに結びついたわけではありませんでしたが、我々の体も含め、自然には神話や言い伝えとは違う、また別な世界があることを人々に認知させる一歩だったことは間違いありません。


生物学の要諦は観察にあります。換言すれば、たとえ数式と記号と文字で解明されたとしてもやはり、メカニズムを実際に目で見て初めて、具体的な理解を得ることができるのではないでしょうか。

レーウェンフックが自作した精度の高い顕微鏡によって、それまで見ることがわなかった、さまざまな微生物や微小物を詳細に見ることができるようになりました。その後、1800年代後半にレントゲンによって発見されたX線による透視解析は、生物学をはじめとする各分野に大きく貢献し、さらに1930年代前半に登場した、分解性能が光学顕微鏡よりもはるかに高い電子顕微鏡は、分子レベルの観察を可能にしました。見ることができなかったものが見えるようになったことで、現代につながる生物学の扉は開かれ、発展していったのです。

一方、1953年のDNA二重らせん構造の発見に端を発した遺伝子研究は、塩基配列を解読するシーケンシングや、DNAを複製して増幅するポリメラーゼ連鎖反応(PCR)といった画期的な技術の開発に至り、ヒトゲノム配列の完全解読の成功やゲノム編集などめざましい成果を上げています。

世界が、「これで生命現象の謎が明かされる」と沸き立ったのはつい最近のことです。しかし、「生命を理解するには、ゲノムを解析しただけではまったく不十分で、まだまだ研究が必要だと知ることになりました」(村本哲哉 東邦大学理学部准教授:巻頭インタビュー)。

生体を構成する部品ともいうべきタンパク質の遺伝子情報を網羅的に知ることができたとしても、その部品がどのように動いて回路を作り、どこに配置され、どんな作用を及ぼすのか——実際に見て確かめなければ生命の謎を解くことはできないと、村本准教授はいいます。

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