新生活様式の触れ合い
日本のシャンソン界の草分けであり、『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』などのエッセイでも知られる石井好子(1922~2010年)。
自叙伝では、衆議院議長も務めた政治家を父に持ち、藤田嗣治やジャコメッティ、越路吹雪や小林秀雄などの著名な文化人と交流した華やかな横顔の一方、離婚、アメリカ留学やパリでの歌手修業、再婚、芸能プロモーターとしての成功や失敗など、禍福織りなす生活と対峙、格闘し、その結果を真正面から引き受けてきた半生が語られていて、目を引きます。
好子は還暦前後に水泳を始めています。支えであった夫と父を立て続けに亡くし、シャンソンに多い悲しい歌が歌えなくなって何も手につかなくなり、重い体調不良に陥り、藁にもすがる思いで、友人の勧めを受けて始めたのです。熱心に取り組んだ結果、マスターズ水泳大会で優勝という快挙を成し遂げました。
「泳いでいると無念無想、嫌なことを忘れ、別人のようになれる。そして、65歳になっても人間の体が発達するのに驚いた」と感想を述べています。
やがて、「彼(夫)は、死んだあとも私に歌の心を教えてくれた」と愛する人を失った苦しみを昇華させた好子は、70歳を前にパリのシャンソンの殿堂、オランピア劇場でのリサイタルを成功させました。そして80歳を超えても歌い続けたのです。
好子にとって、「無心に泳ぐこと」が、復活へ導く第一歩になったのかもしれません。
健康を維持し快適に日々を過ごすには適度な運動が不可欠だということはわかってはいるけれど、新型コロナウイルス感染症のせいで運動が思うようにできない、とため息をつく人は多いのではないでしょうか。なかなか収まる気配のないパンデミックによって私たちの生活様式は大きく変わりました。
テレワークがじわりと浸透し、外出するときにはマスク着用は当たり前の習慣となりました。意識せずともソーシャルディスタンスを保ち、握手やハグは極力避けます。日本人にはあまり抵抗がありませんが、異なる文化や習慣を持つ国では、なかなか慣れずに苦労しているようです。
ただ、人と人とがフィジカルに触れ合うこと、つまり触覚を刺激する行為は心身ともに良い効果をもたらすことが、科学的にも明らかにされつつあります。触覚刺激で私たちは、リラックスしたり癒やされたりします。ぐずっている赤ちゃんをお母さんが抱っこすれば、赤ちゃんの副交感神経は活性化し、やがて泣きやむことも分かっています。介護の現場でも、優しく触ることはとても重要な介護技術の一つです。
人の感覚は20以上あるともいわれていますが、触覚・視覚・聴覚・嗅覚・味覚の五感がよく知られています。五感は連携して外部刺激を脳に伝え、脳はその情報を統合して処理します。ただ触覚だけは他とは異なり、脳は、感じた触覚刺激を自分の中に生じた「自身の感覚」として捉えるのです。触覚はさらに、情動、つまり、怒りや喜び、悲しみなどの急な感情を刺激して、視覚や聴覚に影響する可能性があるといいます。触れ合いが心に響くのは、こうした触覚と脳の作用によるところが大きいのではないでしょうか(〈触覚は視覚や聴覚に影響し「情動」を刺激する〉参照)。
パンデミックによって変化した生活様式で、ソーシャルディスタンスは新たな習慣として根づくかもしれません。人とのフィジカルな触れ合いをいかに取り戻すかが、これからの課題です。