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ヘルシスト 275号

2022年9月10日発行
隔月刊


粥の香り

数々の動乱に揺れた鎌倉時代、貴族の血筋に生まれた道元(1200〜1253年)は、真の仏法を求めて中国(宋)へ渡り、仏道を体得。帰国して京の深草に修行道場となる興聖寺を創建し、やがて越前の永平寺に入り、曹洞宗の開祖として、その礎を築きました。

生涯を修行生活のうちに送った道元は、『正法眼蔵』をはじめとする著作で教義を究める一方、日常のすべての営みが修行であると、その行じ方の実践を示した『永平清規』6篇を残しています。

その中には、食事を作る者の心得を説いた「典座教訓」と、食事をいただくときの心がけと作法を説いた「赴粥飯法」の2篇が収められ、道元がいかに毎日向き合う食を重んじていたかを伝えています。

その「赴粥飯法」に、古代インドの僧侶の戒律を記した『』から引用した、の良さをたたえる一節があります。

 「粥には十の功徳があり、〔中略〕この十の功徳とは、一に血色をよくする、二に力を得る、三に寿命を延ばす、四に苦痛がない、五に言葉がはっきりする、六に胸のつかえがなおり、七に風邪がなおり、八に空腹が癒え、九に喉の渇きが消え、十に大小便の通じがよくなる、の十であると言う」(訳文:中村信幸)

消化が良く、体を温める粥は、乳幼児や高齢者、病にある人だけのものでなく、古くから修行に臨む僧たちを支える食事でもあったのです。
この夏も、厳しい暑さの日が続きました。人心地ついたところで、自分のためにお粥を炊いて、味わうのはいかがでしょうか。


例えば、おなかをこわしたり、熱を出したりして食欲がなかったときに食べた白粥のおいしさは今も忘れない——という人は少なからずいるのではないでしょうか。白米だけで炊いた他に混ざりもののない白粥そのものに味はついていないのですが、それをおいしいと感じるのは、温かい白粥独特のやさしい香りによるところが大きいからに違いありません。

食べ物が喉を通るとき、その食べ物の匂い分子は喉の奥を経由して鼻腔内に達し、嗅上皮にある嗅覚受容体と結合します。その情報は、嗅神経細胞から脳にある嗅球と呼ばれる領域に受け渡され、さらに脳の奥にある嗅皮質や眼窩前頭皮質といった領域へと伝わっていき、「食べ物の匂い」として認識されます。

巻頭インタビューに登場いただいた新村芳人宮崎大学教授によると、この「レトロネーザル」と呼ばれる匂い分子の経路こそが、食べ物の「味」を左右する、他の動物には存在しない機能なのだといいます。つまり私たち人間だけが、食べ物のおいしさを感じ、食事を楽しむことができるのです。

そもそも哺乳類の嗅覚は天敵から身を守り、腐敗したものを避け、環境に順応するために発達させてきた生存に直結する重要な機能で、五感のなかでは最も起源の古い感覚です。火を獲得した人類はやがて調理を習得し、よりおいしいものを追求するようになりました。こうしてヒトの嗅覚は進化していきます。その結果、エネルギー効率の良い食料を得ることができるようになり脳は発達、さらにおいしくて栄養価の高い食物を追い求めていく——このような相乗的なサイクルによってヒトは特有の進化を遂げることができたのではないかといいます。

ヒトとチンパンジーの遺伝子は98%が同じですが、嗅覚受容体遺伝子に限っては、共通しているのは75%です。なぜヒトだけが特異的に進化することができたのか——その謎を解く鍵は嗅覚受容体遺伝子に隠されているのではないかと、新村教授は推論します。

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