染色体は、DNAがヒストンというタンパク質に巻き付いて形成される棒状の複合体で、細胞の核の中に対になって格納されている。ちなみに人間の染色体は23対あり、その中の1対がXとYの性染色体だ。そのうち男性の染色体とされるY染色体が実は退化していて、やがて消滅する運命にあるのだという。ただ、Y染色体がすでに消滅しているアマミトゲネズミでは性染色体以外から、性決定をつかさどる領域が発見されている。男性が消えてしまう恐れはないのだろうか。
「細胞と遺伝子」 第25回 Y染色体はやがて消滅する!
イラストレーション/北澤平祐
男性のY染色体が退化し続け、数百万年後に消滅するという説を唱えたのは、オーストラリアの遺伝学者であるジェニファー・グレーブズ博士である。
「男性を男性たらしめているY染色体は現在も退化し続け、消滅の一途をたどっています。Y染色体が短くなったのは最初は偶然でしたが、今は必然であり、Y染色体は消えゆく運命にあります」
哺乳類でY染色体を失った動物は3種類
北海道大学大学院理学研究院の黒岩麻里教授はそう話す。黒岩教授の研究分野は生物の性がどのように決まるのか、である。実際に、Y染色体の大ききはX染色体の20分の1以下と小さい。また遺伝子の数も大きく異なり、900程度の遺伝子が存在するX染色体に比して、Y染色体には100程度しか残っていない。
「X染色体とY染色体はもともと同じ染色体でした。ですが、染色体上に性を決定する遺伝子を獲得すると、一方が退化してしまうことが分かっています」
生殖細胞が減数分裂をする際には、相同組換えといって染色体を組換えて互いの領域を交換するが、このときに有害な変異を排除する仕組みがある。だが、XとY染色体は違うものになっているため互いの組換えが行えず、有害な変異配列が蓄積していく。それを排除する仕組みから、Y染色体は短くなっていった。
では、Y染色体がなくなって、いつか男性は消えてしまうのか。実際に、哺乳類でY染色体を失った動物は3種類が知られている。そのうち2種類が奄美大島と徳之島に生息するアマミトゲネズミとトクノシマトゲネズミである。オスもメスもX染色体しかない(図1)。
「これらのトゲネズミがY染色体を持たないことは1970年代から知られていましたが、国の天然記念物や絶滅危惧種に指定されているため、実際に研究できる人が少ないままでした。Y染色体を失ったのは約100万年前だと推定されていますが、それでも滅びることなく、生殖を行っている仕組みは謎でした」
黒岩教授は2005年から研究を始め、トゲネズミの保全を専門とする研究者の協力を得て、共同で研究をすることができた。
そこから20年近くの研究を経た2022年、黒岩教授はY染色体が消失してもオスが生まれるという謎を世界で初めて解明した。アマミトゲネズミのゲノムを調べると、性染色体ではなく、常染色体(性染色体以外の染色体)の3番染色体に新たにできた別の遺伝情報が性決定因子として働き、Y染色体の代役としてオスの精巣を形成することが分かった。
「オスの3番目の常染色体に存在する『SOX9』遺伝子近くにある配列が、新たな性決定因子として働いていることが分かりました」
性決定遺伝子がなくても性分化できる要因
そもそも、性決定とは「オスになるかメスになるかを決めること」だ。具体的に定義づけると「精巣を作るか卵巣を作るかを決めること」だという。その時期は、ヒトの場合は妊娠8週目ごろで、Y染色体上の性決定遺伝子であるSRY遺伝子の働きがスイッチとなり、SOX9遺伝子が働きだすことで精巣が作られると黒岩教授は説明する。だが、アマミトゲネズミの場合はこのSRY遺伝子がない。
「これまでの研究から、SOX9遺伝子はオスで機能していることは分かっていました。そこで考えたのが、SRY遺伝子がなくても、性決定のスイッチが入る要因があるはずということでした」
黒岩教授はアマミトゲネズミのオスとメスのゲノムを網羅的に比較し、性差がある場所を特定しようとした。これが普通の哺乳類であれば、性差はすぐに見つかる。だが、アマミトゲネズミではオスもメスもほぼ同じ遺伝情報を持っていたため、なかなか見つからなかった。
そんな中、唯一見つかったのが、SOX9遺伝子の上流部分の配列で、オスだけに重複があることだった。
「この重複の中に入っていたのが、『エンハンサー』と呼ばれるものです」
エンハンサーとは、遺伝子の転写量を増加させる作用を持つDNA領域のことをいう。
「このエンハンサーが、オスはメスの2倍あることが分かりました。すると威力は2倍以上になるため、SRY遺伝子がなくてもスイッチが入り、SOX9遺伝子が働いて、オスになるのではないかと仮定したわけです」
ただ、天然記念物であるアマミトゲネズミは生きた材料が一切使えないという問題があった。よって、仮説の証明ができない。そこでゲノム編集マウスで仮説を証明することにした。
「マウスもこのエンハンサーを持っているので、それを切り取り、アマミトゲネズミの重複したエンハンサーを導入したマウスを作りました。通常のメスではSOX9遺伝子がまったく発現していなかったにもかかわらず、アマミトゲネズミのエンハンサーを導入したマウスでは、メスでもSOX9遺伝子が発現していることが分かったのです。これにより、この重複があればSOX9遺伝子を働かせるスイッチが入ることが証明できました。要するに、3番染色体にエンハンサーの重複があるとオスになり、ないとメスになるということです」
エンハンサーの重複があれば、メスもオスになる——。そこから分かったのは、トゲネズミがさらに次のような選択を取ったことだ。Y染色体にはSRY遺伝子以外にも精子を作るなど、オスの機能にとって重要な遺伝子がいくつかある。それらがなくなると、オスであってもオスの「機能」を失ってしまうことになる。そこで、アマミとトクノシマトゲネズミは、一部の遺伝子をX染色体に「逃がす」ことで、部分的にY染色体の機能を残したというわけだ(図2)。
トゲネズミは進化の過程で一度、Y遺伝子が消え、オスがいなくなって絶滅しかかったのかもしれない。だが、このような選択を取ることで、絶滅の危機を回避したと考えられるのだ。ただ、現在絶滅危惧種とされているのは、Y染色体がなくなったこととは関係がない、と黒岩教授は話す。
「トゲネズミが生息しているのは琉球諸島の3つの島です。これらの島にいる野生動物の多くは絶滅が危惧されているんです。その原因は、近年の森林伐採による生息環境の縮小や、ノネコ、マングース等の移入種による捕食など、明らかに人の手によるものです。トゲネズミはY染色体がないから絶滅しかかっているわけではありません。奇跡的に絶滅を回避して生き残れたのに、今度は人間によって絶滅させられそうになっているのは残念なことです」
性決定はそれほど単純な話ではない
では、トゲネズミから得られた「Y染色体がなくても男性が維持できる仕組み」は、Y染色体が短く退化し、いつか消えるとされるヒトにも応用できるのであろうか。「実はヒトでも次のような報告があります」と黒岩教授は言う。
「性分化疾患といって、持っている染色体や遺伝子のタイプと体のタイプが一致せず、治療が必要な方がいます。例えば染色体はXYであるにもかかわらず、体のタイプは女性で精巣がない方がいる。その疾患では、XY染色体とSRY遺伝子があっても、エンハンサーの部分が切れてしまっており、SOX9遺伝子が働くことができないのです」
逆に、染色体はXXであっても、精巣があるという人もいる。
「その方の遺伝子を調べると、エンハンサーが重複して、2倍だったり3倍だったりするわけです。いわばトゲネズミと同じ状態です。つまり、XXでSRY遺伝子がなくても、SOX9遺伝子が発現しているのです。そうした性分化疾患の方は、現状では『疾患』という扱いを受けています。しかし、生物の進化という視点から見ると、そうした方々が持つ多様性は、非常に重要なものだと言えると思います」
それは進化のための準備と言えるのだろうか。
「ある意味ではそうかもしれません。変異を持つ人が必ず一定の数、毎世代生まれてくることにはやはり意味があるのではないでしょうか。そうした人たちを含めた多様性が、トゲネズミで起きたような進化をもたらしてくれるからです。よって、疾患やマイノリティとして捉えるのではなく、大事な多様性の一つであることを知ってほしいですね」
黒岩教授は「性決定は固定的に考えられがち」だと続ける。例えば、XXであれば女性、XYであれば男性、と一般的には考えられるが、トゲネズミのケースを考えれば話はそれほど単純ではない。生物にはY染色体の有無にかかわらずオスになったり、メスになったりするという仕組みがあるからだ。
「性の決まり方は、想像以上に柔軟なものなのです」
また、XXやXYも、一度決まってしまえばずっと同じというわけでもないという。
「例えばXYの男性でも、喫煙や老化などによって細胞からY染色体が消えていくという報告があります。X染色体が1本になってしまうと、病気になりやすかったりする。また、女性でも、男の子を妊娠すると、赤ちゃんのXYの細胞が母体に入ってくることもあります」
つまり、これまで「エラー」とされていた染色体の状態も、生物の進化においては意味があるかもしれない。そして、その研究は、現在は明らかにされていない疾患について解き明かす上でも、重要な役割を果たす可能性があるわけだ。
「まったく注目されていなかった研究が、50年後、100年後に実は重要なものだったと分かることは、科学の歴史においてよくあることです。だからこそ、柔軟に考える視点が必要かなと思います」
1991年に初めて性決定遺伝子が見つかる
黒岩教授は41歳のときに北海道大学の教授となった。
「現在の理学研究院では女性の教授は私1人です。私もここでは絶滅危惧種なのです」
幼い頃から動物が好きで、道を歩きながらずっと下ばかりを見て、アリを探しているような少女だった。だが、当時は「女の子だから当然文系」と考え、何の疑問も持たずに文系学部に進学するつもりだったという。
「私自身にも性差の固定観念があったのだと思います。でも、結局は高校での生物の授業がいちばん面白くて、気がついたらその道に進みたいと考えるようになっていました」
入試の2次試験で、理科は1科目のみ選択して受験できるという理由で名古屋大学農学部に進学。その指導教員が染色体研究の専門家だった。
黒岩教授が学生時代を過ごした1990年代は性決定に関する遺伝子が徐々に見つかってきた時期だった。世界で初めて性決定遺伝子が見つかったのは1991年、哺乳類のSRY遺伝子である。
「私が大学生のときは、性決定遺伝子といえばそのSRY遺伝子しか知られていませんでした。ところが、大学院生になった頃、メダカの性決定遺伝子を日本の研究グループが報告し、2番目の性決定遺伝子が見つかった。さらに3番目、4番目と、どんどん新たな遺伝子が見つかってきた時代を、私は学生として過ごしたんです。だから、研究が進むと、こんなにいろんなことが分かるんだと実感している。その体験が私の研究の原動力になっています」
指導教員が北大に異動するタイミングで、黒岩教授も北海道にやって来た。指導教員が着任したのは北大理学部附属の動物染色体研究施設(現・ゲノムダイナミクス研究センター)。そこにはさまざまな動物の細胞がストックされており、その中にトゲネズミの細胞があったのが出合いだ。
「トゲネズミの細胞は自由に取ることはできないので、その出合いは大きかったです」
だが、トゲネズミの研究は想像以上に難しかったという。性決定の研究は、胚のサンプルがないとできないといわれていたが、そのサンプルを手に入れることは不可能だ。
それでもトゲネズミの染色体とDNAの解析を行えたことは、のちの研究の大きな財産になった。
「できることはすごく限られています。しかし、その中で代わりの方法を探し、時間と根気で研究を続けてきました。私はすごく執念深いんですよ。絶対に諦めないですから」
とにかく執念深く続ける——それが世界初の研究につながった。