細胞と遺伝子 第30回 がん細胞を排除する細胞競合

イラストレーション/北澤平祐

河合香織(かわい・かおり)

ノンフィクション作家。『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。新著にアンチエイジング研究の最先端を取材した『老化は治療できるか』(文春新書)がある。

変異した遺伝子を持つ細胞が、長期間のプロセスを経てがん細胞化することは分かっているが、がん化に至るメカニズムは未知の部分も多い。しかし正常細胞ががん細胞などの変異細胞を認識して排除する、細胞競合と呼ばれる仕組みがある。細胞競合とは正常細胞と変異細胞の生存競争のことで、つまり正常細胞の力を高めることができれば、がん化途上にある「前がん病変」を排除できるという。新たな予防的治療法の開発につながると注目されている。

京都大学大学院医学研究科分子生体統御学講座教授

藤田恭之(ふじた・やすゆき)

1990年、京都大学医学部卒業。1993年に2カ月間ウガンダ共和国で医師ボランティアを経験後、京都大学医学部老年科、大学院医学博士課程修了。1997年、ドイツ・ベルリンのマックス・デルブリュック分子医学センターで博士研究員。2002年、英国UCLのMRC分子生物学研究所にてグループリーダーを務める。2010年、北海道大学遺伝子病制御研究所教授。2020年から現職。

人類が挑み続けてきたがんについては、多くのことが明らかになってきた。だが、未知のブラックボックスとも呼べる領域が存在する。

がんは、いわゆる「がん遺伝子」や「がん抑制遺伝子」に変異が生じることで発生することはよく知られている。ただ、がんが発見されたときには、すでに多くの変異が蓄積した状態となる。

「臨床ではだいたいは『極悪』で見つかる」

例えば、大腸がんではポリープという良性腫瘍の段階で捉えることしかできず、すい臓がんに至っては本当にがんが進行しないと見つからないことも少なくない、と京都大学大学院医学研究科の藤田恭之教授は言う。

「がんの発生を見ると、1つ変異が入って、 2つ目、3つ目……といったプロセス、つまり、最初は『ちょい悪』から始まって、『ちょい悪』が『悪』になって、『悪』が『極悪』になってというプロセスを長年かけてたどるんですけども、臨床ではだいたいは『極悪』で見つかることが多いんです。でも、最初はすべてが正常な細胞で、そこにぽこっと変な細胞が入るところから始まるはずなんですよね。変異は確率的にただ偶然に起きるのですが、そのときに細胞では何が起きているのかを調べることから始めようと思いました」

藤田教授は、正常細胞の中にがん細胞など変異細胞が現れたときに、正常細胞が変異細胞を認識して排除することを、哺乳類で初めて発見した。これは「細胞競合」と呼ばれ、正常細胞と変異細胞の間の生存競争を指す。この発見はがん発生のメカニズムの解明と、がんの予防的治療法開発につながるのではないかと世界中から注目されている。

「正常な細胞が異常な細胞を排除する力を高めてやることによって、今ある前がん病変を排除できるような予防薬につながらないかと考えています」

変異が蓄積する前の段階で、がんの発生する前に異常を捉えて、治療することができれば、がんの予防に対するアプローチが大きく変わるはずだ。

また最近、分かってきたこととしては、正常な細胞が異常な細胞を排除するためには、正常な細胞も健康でないといけないということだ。マウスに高脂肪食を与えて肥満にしたり、炎症を誘起するような薬剤を入れてやると細胞競合が起こりにくくなるという。さらに細胞が老化することでも、細胞競合しにくくなることなどもさまざまな研究から明らかになっている。

「炎症ががんの発生率を上げるということは、いろいろな臓器で知られています。でも、どうしてそうなるのかは、完全には解明されていません。その一つの可能性として、前がん細胞である『ちょい悪』細胞の排除が抑制されるということは、あると思っています」

逆に言えば、細胞競合の原理が分かれば、正常細胞の防御力を上げてやることが可能になるかもしれないそうだ。

前がん細胞の発生を予防するには

「がんの予防で一番足りないのは、前がん細胞の段階で診断ができないことです。それをモニターできるような非侵襲的な方法、例えば画像診断などを使って診断できるようになれば、予防薬の効果を調べることができるでしょう。もしも予防薬を使って前がん細胞が排除されたということが証明され、その仕組みが分かれば、一気にこの分野は広がっていくでしょう」

この画期的なアイデアをひらめいたのは大学院生のとき、トイレの個室でのことだったという。とても暑い夏、ラボに異臭が漂っていることに気づいた。ゴミ置き場の横に腐乱した40匹のラットが放置されていたという。藤田教授がラットを片付けなかった同僚を注意すると、「うるさい、気になるなら自分で片付ければどうですか」と不機嫌に対応された。

「拳を振り上げかけて、でもこれはいかん、冷静になろうとトイレの個室に入って考えました。『あいつは、がんみたいなやつだ』と。でも、警察を呼ぶほどではない。どうすればいいのだろうと。そこで細胞の世界でも同じことが起きているのではないかというアイデアが浮かんだのです。悪性のがん細胞は、通常は警察の役割をする免疫細胞が対処しますが、『ちょい悪』細胞に対しては周りの正常細胞が対処しているのではないかと思いついたんです」

そこからすぐに先行研究を調べたが、そのような論文は見当たらなかった。これまでにないあまりにユニークな視点だったので、大学院生やポスドク(博士研究員)時代はこの研究に着手させてもらえなかった。

そして2002年に藤田教授はロンドンで自分の研究室を持てるようになって、ようやく温めてきた研究ができると意気込んだ。早速、研究室のメンバーにこのアイデアを話して、一緒に研究してくれるように一人ずつ声を掛けた。

「でも、その研究の面白さを研究室のメンバーが誰も理解してくれなかった。意味が分からないとか、似たような研究はあるのかとか言われて、7人いたメンバー全員から断られてしまいました」

それなら、一人でやろうと思ったが、やはりどうしても自分だけでは難しい。そこで、一人の部下をパブに連れて行き、この研究は絶対に面白いと思うと情熱的に伝えた。

「その彼女は、最後はようやく折れてくれました。研究室のメンバーを説得するのが難しいぐらい新しい内容だったということです」

ただ、実際に実験を始めてみても、すぐ順調にはいかなかった。まず正常な細胞に、RAS遺伝子と呼ばれる、細胞の増殖を促進するシグナル伝達に関わるタンパク質をコードするがん遺伝子を導入し、がん化するような細胞を作るのに半年以上かかった。

「細胞培養系を作るために、遺伝子を細胞に運ぶためのベクター2つを別々に入れるという2段階の作業が必要になりました。それぞれの段階で800個ぐらい細胞を取ってきて、一個一個に薬剤を入れて、それをまた一つひとつ遺伝子が発現するかどうかチェックするんですよ。とにかく根性で、妥協なくやっていきました」

それは、誰もやっていないオリジナリティあふれる方法でがんを治したいという夢がドライビングフォースだったという。

初期段階では細胞競合によって排除される

「最も怖かったのは、実際にがん細胞が出現しても、何も起こらないことです。ですが、正常細胞と混ぜてみたら、がん細胞が正常細胞の社会からぽこっと吐き出されるように排除されるという現象が見えました(図1)。それは正常細胞の中に、異常な細胞ができると積極的に排除されるということを表しているんです」

図1 RAS変異細胞「ちょい悪」細胞の正常上皮細胞層からの離脱CMTPXは蛍光色素。矢印はRAS変異細胞を示す。正常細胞に囲まれたRAS変異細胞が、上皮細胞層の管腔(かんくう:上側)に押し出されるようにして離脱していった。

まさに世紀の発見で、藤田教授は「めちゃくちゃ興奮した」という。けれど、そのとき一緒に実験をやっていたスタッフはその現象を見ても、ピンときていない様子だったという。あまりに新規性が高いため、周りの研究者にデータを見せても8割方は、その意味をすぐには理解できなかったという。

藤田教授は、2009年にこの実験について、哺乳類で細胞競合が起こるということを世界で初めて発表した。それから、RAS以外のがん遺伝子やがん抑制遺伝子でも、同じように細胞競合が起きるということが分かってきた。そして、藤田教授は2017年に、マウスを用いて、生体内でも同じ現象が起きることを明らかにした(図2)。

図2 マウス腸管にて管腔側へ排除されるRAS変異細胞矢印はRAS変異細胞を指す。周囲の正常細胞との相互作用による細胞の非自律的な代謝変化が細胞競合に関与していることを明らかにした。

「これまでは異常な細胞の認識と排除は、リンパ球やマクロファージといった免疫細胞、つまり体の中の警察のような細胞が、そういった働きを担っていると考えられていました。しかし、この研究から警察だけではなくて、一般市民である正常細胞が異常を見つけて社会から排除することで、がんに対応するという、まったく新たなシステムの発見になりました」

がん細胞の初期の段階では、細胞競合によって排除されていると考えられると藤田教授は話す。ただし、排除できずにがんが増殖してしまうこともある。

「細胞競合は、がんを予防するようなメカニズムですけれども、逆にがんを促進するメカニズムもあるはずです。がんが発生した一番初期の段階では、その両方が起こっていると考えられます。細胞競合により多くのがん細胞は排除されますが、一部のがん細胞は細胞競合の勝者になって増えていくのです」

正常細胞とがん細胞のどちらが競合に勝つかによって、命運は分かれていく。ただし、どういうときにどのような状況で勝者になるのかはまだ明らかになっておらず、藤田教授はすい臓がんで研究を進めているのだという。

細胞競合は多くの異常細胞に起きている

興味深いのは、細胞競合はがんだけではなく、さまざまな細胞で起こるということだ。

「この5年くらいで細胞競合に関する研究が多数発表されました。がん細胞だけではなく、機能が落ちた細胞、感染した細胞などさまざまな異常細胞が排除されることが分かっています」

他に、iPS細胞やES細胞でも細胞競合は起こるという。

「異種間の胚を使って作る、いわゆるキメラ動物において、進化的に近い動物同士はES細胞でキメラを作成することができますが、進化的に遠い動物、例えばヒトとマウスのES細胞をミックスしても、キメラは決して生まれないことが分かっています。その理由は分かっていなかったのですが、最近になってES細胞間で細胞競合が起こるということが明らかになりました」

マウスとヒトの間では細胞競合するけれど、マウスとラットの間では細胞競合は起こらない。だからマウスとラットのキメラは生まれるが、 マウスとヒトの間では細胞競合が起こるためキメラは生まれない。

では、なぜ細胞競合が起きるのか、異常細胞をどうやって認識しているのかについては、まだ明らかになっていないという。

「細胞競合に関して、これからもさまざまな疾患との関連であったり、新たな知見はどんどん出てくるとは思います。ですが、やっぱりベーシックの部分がまだ解けていないので、そこが解明されると本当に飛躍的に発展すると思います」

現在は大きく分けて、2つの大きな仮説があるのだという。1つ目は、何らかの普遍的なルールが細胞競合の上流には存在していて、それが分かるとすべての仕組みが理解できるという考え。2つ目は、細胞競合は実は細分化されており、さまざまな違いを別々の何らかの認識機構で認識しているという考えだという。

「僕としては、前者のほう、何らかの普遍的なルールがあって、それにのっとって細胞は認識しているはずだと考えています。僕自身のこれまで研究してきた感覚でしかなく、まだ妄想段階なのですが。ただ、解明する足がかりは見えてきていて、これを見つけるのが僕の夢であり、目標です」

藤田教授ががんを研究したいと思ったのは中学生の頃からだという。小さい頃、母からたくさんの伝記を買い与えてもらった。その中で興味を持ったのが湯川秀樹とアルベルト・シュヴァイツァーだったという。

「当時はゲームなどなかったので、僕たちは本を読むぐらいしか暇つぶしができなかったというのもあって、本をたくさん読みました。がんは身近なもので、がんを治せたらヒーローになれると。でもみんながやるような研究は絶対にしないと思っていました」

藤田教授は、高校2年生のときに、「20年後の自分が次の2つをやったら僕は自分を尊敬するだろう」と記した。1つは海外で医療行為をすること、もう1つは海外で研究をすること。

「ドイツや英国など海外で研究はしてきましたし、海外で医療行為をすることも、大学の卒業旅行で行った東アフリカで出会った方のご縁で、ウガンダで診療所の立ち上げを手伝ったことがあります。でも、まだもう1個ぐらい、まったく新しい研究を始め、科学者として真実に近づき、そして医師としてがん征服に力を尽くしたいと思っています」

アイデアは10個試しても1つくらいしかうまくいかない、と藤田教授は言う。研究は根性とともに、セレンディピティ(幸運な偶然)も必要だ。これまでの偉大な先人の科学者たちも、セレンディピティに支えられてきたという。

「誰にでもセレンディピティに巡り合うチャンスはあるはずです。でも、こういう結果が出ると思い込んでいる人は、それを見逃してしまう。そうではなく、データや対象を虚心にしっかりと見ることが大きな発見につながるのだと思います」

(図版提供:藤田恭之)

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