どうしたら匂いを伝えることができるのか——。例えば視覚の三原色は色を再現する基本的な要素だが、嗅覚は受容体が約400種あり、“原臭”ともいうべき基準が存在しない。そのため匂いの再現は難しいとされてきたが、ようやく道筋が見えてきた。まず、基本となる匂いの要素を選定、調合することで多様な匂いのベースとなる「要素臭」を作る。その要素臭を「嗅覚ディスプレイ」でさまざまに組み合わせて提示すれば、離れた場所でも匂いを再現することができるという。
特集 においの科学 難しいとされた再現に成功 「匂い」は伝えられる!
構成/飯塚りえ
匂いを伝えるということは、五感の中でも難しいとされています。聴覚や視覚は、“要素”をデータ化し、それを記録して再現するという技術が完成し、日々進化しています。例えば色なら、三原色それぞれの割合を変えて任意の色を表現することができるのは、多くの人が知っています。
味覚に関しても、解析が進み、マグロの味を違う材料から再現するなどといったことができるようになりました。しかし、匂い、嗅覚に関しては、一定の原則に基づいて元の匂いを再現するということが一般的になっていません。
一つには、匂いの基準となるものがない、という背景があります。視覚は基本的には3つの色を“原色”として再現することができます。ところが、嗅覚は受容体が約400種あり、“原臭”とされるものがありません。
視覚における三原色のような「要素臭」
1960年代に、英国の生化学者、ジョン・アムーアは、立体化学説を唱えました。匂い分子の立体化学的な構造を鍵、嗅覚受容体を鍵穴と見なし、類似する分子の構造を分類するというアプローチで、最終的には匂いのもと、「原臭」を定めることができるというのがアムーアの基本的な考え方です。しかし、嗅覚受容体と匂い分子の関係は、光のような1対1の対応になっていないなど受容体に関して解明されるにつれ、嗅覚における原臭という概念が用いられなくなってきました。私たちは、匂い分子の種類を解明するというところは見ていません。
私たちは、まったく別の手法で匂いの要素を探ることを考えました。私たちの手法は、多くの精油を質量分析器によって解析し、その測定結果を用いて「要素臭」を構築し、さまざまな匂いを再現しようというものです。その過程では、どうしてこの組み合わせが要素臭となるのか、ということには注目していません。データとして整合性の取れているものを作ったというのが、私たちのアプローチといえます。
私たちは最初に、視覚における三原色に相当する、多様な匂いを再現するためのベースとして、185種類の精油を質量分析器で計測しました。質量分析器とは、分子や原子の質量を計測するもので、気体が放電され、イオン化した分子を、質量と電荷の比によって大きさ順に並べた「質量スペクトル」を得る装置です(図1)。
次に、得られた膨大なデータから「マススペクトル」という情報を得ます。マススペクトルには、試料分子の構造に関係する情報が多く含まれており、既知の物質の同定などに有効です。これらのデータを解析して、20種ほどの「基底ベクトル」を抽出しました。この場合の基底ベクトルとは、「得られたあらゆるベクトル情報を表すことができる最小限のベクトルの組み合わせ」とでもいうものです。
要素臭を用いて匂いを再現する
さらに基底ベクトルを200ほどの指標で評価し、近似のパターンを描くように既存の精油をブレンドし、20種の要素臭としたのです(図2)。要素臭の探索では、ベクトル上で、ある要素臭のベクトルと別の要素臭のベクトルができるだけ直交するように混成を変えていくと、対象とする匂いに近づくなど、再現するまでのヒントのようなものがいくつか見えてきました。
質量分析器を用いた私たちのこの手法では、例えばラベンダーの中のどういう分子が香気成分となり、どの程度含まれるのか、といったことを分析しません。そうした成分分析は、クロマトグラフィー(物質を分離、精製して特定の物質の成分量を測る技法の一つ)とともに行うことで可能ですが、現状では、コスト等の側面からも特に行っていません。匂いの再現において、化学系のアプローチになると、分子や化合物といった用語が出てくるのですが、工学系の私たちは、測定データから、それと矛盾のないものを作成するだけなので、化学系の研究者からは、不思議がられることもしばしばありました。
私たちは匂いを、数値化しているイメージで捉えています。質量分析器のデータから導いた要素臭によって、効率的にいろいろな匂いを“再現”することができるようになります。
そして、これらの要素臭を用いて、匂いを再現して提示するのが「嗅覚ディスプレイ」です。先述した方法で作成した要素臭を、特定の装置を用いて射出・調合して霧状に放出することで、その場で匂いを再現しているのです。
最新の嗅覚ディスプレイでは、マイクロディスペンサー(定量の液を噴射する装置)によってごくわずかな量の液滴を射出すると、瞬時に霧状になって、匂う、というものです。要素臭と同じ数のディスペンサーが設置されて、それぞれ指定された比率で噴射されます(図3)。
嗅覚ディスプレイの装置には、ウェアラブル型も増えています。VRゴーグルの下に付けて、VRの画面と連動して匂いを出すといったものです。
料理の場面では肉が焦げるような匂いが
今回は20種の要素臭を用いていますが、数が多くなれば精度は上がるとしても、装置の設計が難しくなっていくので、兼ね合いを見ながら、適切な数の要素臭を使っています。
成分を合成して放出するという装置はこれまでにも存在しましたが、従来の方法では、香料を液体レベルで調合していたために、提示するまでに時間がかかったり、要素臭の消費も早いなどという課題がありました。私たちが今回開発した嗅覚ディスプレイは、それらの課題を解消することになりました。
このディスプレイを使って、エンターテインメントなど、さまざまな場面での応用を検討しています。具体的な場面を見ていきましょう。
嗅覚の再現に関してよく話題になるのが、映画とのコラボレーションです。私たちが関わったプロジェクトの中で最も印象的だったのは、映画『千と千尋の神隠し』の実験です。この映画全体は2時間程度ですが、これを4分ほどに編集し、例えば料理の場面では肉の匂いが出るなど、いろいろな場面で画面に提示されたものと関連のある匂いを噴射するという実験を行いました。その後、参加した人に映画の中で最も印象に残った場面についてアンケートを取ったところ、興味深い結果となりました。
この映画には、ぷんぷんと強烈な悪臭を放つオクサレ様(腐れ神)というキャラクターがおり、最初に腐れ神が登場する場面では、いわゆる腐敗臭を放出させ、次に腐れ神が薬湯を浴びるという場面では、ハーブのような香りを放出しました。この場面はほとんどの参加者が最も印象に残ったようです。匂いがない場合での視聴と比較すると、匂いの要素が加わることで、映画の楽しみ方が変わったことがわかります。
いろいろなゲームも作っています。料理のゲームでは、カレーの調理手順に応じて、音と匂いをつけるというものです。鍋に具材を入れると、ジュージューと音が出る。そのうち、匂いが出てきて肉が焦げるような匂いになり、ルーを入れるとカレーの匂いに変わります。
「バーチャルアイスクリームショップ」では、13種の匂いを用意しました(図4)。パソコンでバーを操作して各種のフレーバーを好きな調合比に設定し、ミックスフレーバーを体験できます。
匂いは、味と密接に関連しています。そこでバーチャル飲料の実験を行いました(図5)。さまざまな無糖の飲料を用意し、一緒に匂いを出すことで、甘味を感じてもらうというものです。無糖コーヒー、無糖ソーダなど、提供された飲み物には砂糖などの甘味成分が入っていないので、もちろん甘味はありません。被験者は、飲み物には甘味成分が入っていないとわかっているのに、嗅覚ディスプレイからバニラやミルクなどの匂いが出てくるだけで、その無糖のコーヒーを甘いと感じるという装置です。
糖分を控えることに有効なのか、あるいは実際には摂取していないので、むしろ欲求が増すのではないか、と相反する説がありますが、いずれにしても味覚を補完するものとしては有効ではないかと考えています。
ゲームの世界では、ヘッドマウントディスプレイなどウェアラブルの装置と連動した取り組みがあります。迷路ゲームでは、奥にカクテルバーがあるという想定をつくりました。迷路の壁は通り抜けられない。しかし、オレンジなど特定の果物イラストが描かれた角柱は通り抜けることができ、その瞬間に描かれている果物の香りがするという仕掛けになっています(図6)。被験者の体験がよりリアルになったと思います。
災害訓練シミュレーターも作成しています。2階建ての家屋のどこかで、ぼやが発生したという想定で、煙の匂いをたどって発生場所を見つけるというものです。匂いの広がり方や強度などは、数値流体シミュレーションという手法で算出しています。
応用範囲は災害訓練や医療にも
このように一定の匂いを再現できるようになりましたが、今後、ICTなどと連動させることで、匂いを遠隔に伝えることも可能になると思います。
「teleolfaction(遠隔匂い再現)」という用語がありますが、私たちも、かなり前から取り組んでいます。もっと原始的な実験ではありましたが、すでにセンサーを使って、離れた所に匂いを伝えるという実験には成功しています(図7)。
遠隔で操作できる回転台の上にリンゴ、パイナップルなどの果物とそれぞれの匂いがする香料を載せ、回転台には匂いセンサー、遠隔にいる被験者の傍らには嗅覚ディスプレイを設置します。被験者は、遠隔で回転台を好きな位置まで動かしてスイッチを押すと、匂いセンサーがその匂いを検出、被験者側にある嗅覚ディスプレイがその匂いを放出し、被験者は“匂い”を嗅ぐことができるという装置です。
つまり、遠隔に匂いを届けるというのは、一定程度実現しています。嗅覚ディスプレイが多くのパソコンに装備されるようになれば、「バラの匂いがするホームページ」の実現は、それほど遠くない将来に実現できるのではと思います。
「嗅覚ICT」の実現には、嗅覚ディスプレイの普及に加えて、「香りライブラリ」の構築も必要になるでしょう。香りライブラリは、要素臭同士の構成比を保存したもので、パソコンから操作して瞬時に多様な匂いを発生させるために必須です。香りライブラリを構築することができれば、さまざまなコンテンツやツールに匂いをつけることが容易になります。
匂いは、人間の気分や情緒にも大きな影響を与えることがわかっており、今後、さらに応用範囲が広がると思います。現状、嗅覚ディスプレイを使って匂いを再現できるようになったという段階ですが、さまざまな応用を積み上げていく必要があると考えています。匂いというと、どうしても食やエンターテインメント関連の取り組みが多くなりますが、先にも示したように、災害訓練シミュレーターや、あるいは医療関係にも広がるだろうと期待しています。
加えて、匂いを再現することがゴールではありません。私たちは今、言葉の情報から匂いを作るという研究にも取り組んでいます。スマートスピーカーに、「癒やされる音楽をかけて」などと言いますが、その嗅覚版です。「フレッシュな匂いを出して」と言ったら「フレッシュ」と解釈された匂いが出るという次第です。そのように言葉で表現されたものをどのように解釈するのか、それもデータの蓄積がものを言います。嗅覚の世界を再現する試みは、縦横に広がっています。