暮らしの科学 第51回 もう迷わない!? 方向オンチの謎

文/茂木登志子  イラストレーション/山崎瑶実

爽やかな季節になると、ハイキングやドライブなど遊びに出かけることも多くなる。しかし、ワクワクする一方で、道を間違えたり迷子になったりしたら……という一抹の不安も。そこで今回は、方向オンチと方向感覚の関係について調べてみた。

〈今月のアドバイザー〉村越 真(むらこし・しん)。静岡大学教育学部教授・同大防災総合センター副センター長。1960年、静岡県生まれ。1985年、東京大学大学院工学系研究科修了。静岡大学教育学部講師を経て、2003年から現職。専門分野は認知心理学で、空間認知、ナビゲーション、リスクマネジメント、安全教育の研究・指導に従事。共著書に『山岳読図ナヴィゲーション大全』『遭難からあなたを守る12の思考』(いずれも山と渓谷社)など。

音楽(歌)のオンチから転じて、方向感覚に疎い人や迷子になりやすい人を指して「方向オンチ」という。歌のオンチに比べて恥じらいを感じることが少ないのか、明るい笑顔で方向オンチを自称する人も少なくない。試しに方向オンチというキーワードを話の糸口にしてみよう。“何度行っても迷ってしまう”あるいは“目的地には着くけれど来た道を戻れない” “地下街の飲食店からトイレに行ったが、元の店に戻れなかった”など、自身の体験や身近な人に起こった方向オンチにまつわる多彩なエピソードが出てくるのではないだろうか。そしてまた、こうしたエピソード集からは、方向感覚の疎さにも差があることがうかがえる。

では、そもそも方向感覚とは?

「方向感覚というのは、一種の心理的概念です。視覚や触覚などのいわゆる五感は、それぞれ目や手などの感覚器官があります。ところが、方向感覚はそうした感覚器官と直結していません。あくまでも比喩的な意味で“感覚”という言葉が使われているのです」

こう教えてくれたのは著書『方向オンチの謎がわかる本』(集英社)などで知られる静岡大学教授の村越真さんだ。学校などでの勉強だけでなく、日常的なヒトの認知や行動も脳の機能によって支えられている。村越さんはそうした専門分野で、ヒトのナビゲーション能力や地図を読んで利用する能力、アウトドアでの危険を察知する能力などの研究に取り組んでいる。

「ところで、あなたは東西南北を指し示すことができますか?」

普段は東西南北など気にしたこともない。困った。だが、オンラインによる取材でホームグラウンドの我が家にいたことが幸いした。えーっと、いつも朝日が差してくるのはこっちからなので東がこっち、だからその反対側が西で、そうするとあっちが南でこっちが北で……。頭の中にある情報や知識を総動員してあたふたしながら東西南北を指し示す様子を、画面越しに村越さんは優しい笑顔で見守っていた。

「まあ、だいたいでもそういうふうに示すことができるというのは、“方向感覚がある”と言っていいでしょう」

村越さんによると、目的地に間違いなく到着するということは、進むべき方向を把握することから始まり、“自分の位置を知る” “周囲の目印や目的地の空間関係を思い浮かべる”“間違えたら元来た道にいったん戻る”など、情報収集や記憶、推測、判断、危機管理といったさまざまな能力を総合した結果なのだという。

「つまり、完全に東西南北がわかることよりも、現在地や目的地の方向を把握する能力が大事で、これを方向感覚といいます。方向オンチというのは、目的地の方向を把握して指し示すのが難しい人、といえるでしょう(図)」

図 あなたは方向オンチ?方向オンチの程度を測る質問は20項目に及ぶ。このうち方向感覚に関わる3問を抜き出してみたので、読者の皆さんにぜひ挑戦していただきたい。
「いずれかに該当すると、その人の方向感覚は少し怪しい」というのが村越さんの判定だ。

なぜ方向オンチになるのか

東西南北テストでとりあえず“方向感覚がある”と判定された。確かに、初めての場所でもちゃんと目的地まで行くことができる。方向オンチという自覚はない。だが、全く同じ仕様の治療ブースが並んだ歯科医院内で、治療後にブースを出た途端、どの方向に戻ればいいのかわからなくて混乱したことがある。もちろん、すぐに案内されて待合室に戻れた。だが、この体験があってから、受診するたびに自分がどの方向からブースに入室したのか、記憶するようにしている。こういう一時的な事態も、方向オンチの事例だろうか?

「そうですね。実は、方向オンチになるときというのは、大きく2つの原因があります。

1つ目は、空間関係を覚えられないときです。そして2つ目が、空間推論がうまくできないときです」

私たちは目的地までの道を歩きながら、例えば、“さっきこの方向から来て右に曲がった”というようなことを覚えているだろう。これが、空間関係を覚えるということだ。そして、もしも道に迷ったりした場合に、この記憶を使って“左に曲がれば元の道に戻れるはず”というように推測する。これが空間推論だ。

「空間関係を覚えることや空間推論がうまくできないときに、方向オンチになるというわけです」

歯科医院での一時的方向オンチ状態は、なぜ生じたのか? むし歯の痛みやガリガリ音がする治療への不安などに気をとられ、空間関係を覚えていなかった。その結果、空間推論もできなくなって方向オンチ状態が生じたのではないか、というのが村越さんの分析だ。なるほど!

このような一時的な方向オンチだけではなく、恒常的な方向オンチというケースが少なくない。正真正銘の方向オンチである。なぜ、方向オンチの人とそうではない人に二分されるのだろうか?

「生得的なものと、成長過程や文化によるものと、大きく2つの原因が考えられます」

1つ目の生得的なものというのは、生物学的な性差だ。個人差はあるものの、根源的な原因ではないかという。

「心理学の研究では、空間を把握する能力は、女性のほうが男性より低いといわれています。性転換手術によって方向感覚が変わるという海外での研究報告もあります。こうした生得的な生物学的性差は、性ホルモンなどの影響があるのではないかと考えられます」

2つ目は、後天的なものだ。

「性差についても言えることですが、昔から、男子は冒険させてもらえるけれど、女子は例えば門限があるとか行動に制限がかかることが多くありました。そういう成長過程での性差や文化・社会的慣習の積み重ねの結果として、方向感覚でも経験値による差が生じます」

面白いことに、質の高い研究データ文献をくまなく調査して分析をするシステマティックレビューを行うと、男女の性差が減少しつつある現在に近づくほど、方向感覚の男女差も小さくなっていることがわかるという。

また、大海原に点在する島々を小さな舟で往来するミクロネシアの人々や白一色の大氷原を移動するイヌイットの人々は、優れた方向感覚を持っている。これは後天的な、社会文化に起因する例だ。

方向オンチは改善できる

方向オンチにおける生物学的な男女の性差も、男女平等による機会均等でその差が小さくなるのなら、努力すれば方向オンチを改善できるのだろうか?

「もちろんです。個人差はありますが、道に迷わないためのスキルを身につけることで方向オンチは改善できます」

道に迷わないためのスキルとは、地図の読み方、目印の着目の仕方などだ。地図の読み方については、例えば、一般に地図は真北を上に描かれているのは基本知識だ。また、地図の端にはスケールバーという縮尺を表したバーが表記されている。それを見れば、例えば地図上の1cmが実際には100mという距離を示している場合には、目的地まで地図上で3㎝だとしたら実際には300mだということがわかる。逆に地図上で1㎝だから目と鼻の先に目的地があるように思えても、スケールバーが1㎝=1㎞を示していたりしていたら、実際に歩くとかなりの時間を要すると考えなければならない。小・中学校の「」マークなど、さまざまな地図記号も知っていると便利だ。地図は情報の宝庫なのだ。

実は、村越さんには、オリエンテーリング(地図とコンパスを用い、野山に設置されたポイントを指定通りの順に通過し、ゴールまでのタイムを競う競技スポーツ)でアジア環太平洋チャンピオンに輝いたという、もう一つの顔がある。村越さん自身は方向オンチではない。だが、競技仲間の優秀な選手の中には方向オンチの人もいるという。地図の読み方に習熟し、コンパスで方角を確認できれば、方向オンチでも迷わず、いや、多少迷っても修正することができるので、ゴールできるのだという。

本題に戻ろう。では、2つ目の、目印の着目の仕方とは?

「消えないものや判断に迷わないものを覚えておくということです。方向オンチの人は、例えば曲がり角に一時停車中のクルマがあったということを覚えていたりする。しかし、そのクルマが発車してしまえば、目印も消滅してしまいます」

コンビニエンスストアやガソリンスタンドなどは消えない目印だが、紛らわしい側面がある。なんというチェーンストアだったかをプラスして覚えておくと、判断に迷わないというわけだ。

「記憶というのは、意識すれば残るものです。移動経路の要所で目印を記憶し、そうした点と点をつないでいけば、一つの道筋にまとまるでしょう」

ちなみにこうした道順に関する情報を蓄積したり、蓄積した情報を活用して適切な経路を作成したりするのは、脳の海馬が担当している。イギリス・ロンドンのタクシードライバーは合格するまでに難しい試験を課されることで有名だ。ベテランのタクシードライバーとバスドライバーの海馬を比較した研究によると、タクシードライバーの海馬は、同じ運転歴だが、自分でルートを計画する必要のないバスドライバーの海馬より大きかったという。脳は年齢に関係なく、使うほど進化していく。年齢に関係なく、方向感覚を高めて方向オンチを改善することが可能だ。

文明の利器活用と危機管理

ここで、村越さんから再び質問が繰り出された。

「毛筆できれいな字が書けますか?」

即答した。いいえ!

「毛筆できれいな字が書けないと、困りますか?」

悪筆は恥ずかしいけれど、筆ペンでそれらしく書くことはできる。パソコンのワープロ機能を使えばきれいな筆文字を印刷することができる。結論、困らない。

「そうですよね。同様に、文明の利器を使えば、方向オンチでも困りません。現代社会では個々人がスマートフォンを携帯しているし、乗用車のカーナビ搭載率も高くなっているので、そうした地図アプリやナビゲーションアプリを活用するといいでしょう」

てっきり、地図が読めるようになりなさいと、厳しく指導されるのかと思っていた。意外なアドバイスにびっくりである。

「方向オンチであるということで、その人自身が日常生活に支障が生じていて、しかも困っているのであれば、方向オンチを改善すべきでしょう。でも、それを自分の個性として受容し、周囲も同様に受け止めて温かく見守ってくれているならば、無理をしなくてもいいのではないでしょうか」

村越さんは、何でも改善したり矯正したりすべきだというギスギスした社会よりも、方向オンチのようにちょっと弱点があってもそれを個性として捉え、お互いに許容できるおおらかな社会であろうと呼びかけているのだ。

最後に文明の利器を活用する場合の助言を聞いた。

「遠くから自宅に帰る場合の大まかな道筋を知っておくと、災害による帰宅困難時などに役立つでしょう」

ただし、スマートフォンを持っていて使いこなせるのは一定の年齢以上だろう。

「毎年のように子どもの迷子事件が起こっています。特にキャンプ場など普段とは異なる環境にいる場合には、子どもが迷子にならないように大人が対策を講じるべきでしょう。また、スマートフォンなどを持っていても、認知症の高齢者の場合、文明の利器を使いこなせません」

幼い子どもや認知症高齢者などに対しては、方向オンチとか迷子ではなく、危機管理の視点での見守りが必要だ。

方向オンチの謎を科学的に解き明かす道筋のゴールは、人の心と体が安全でいられる社会だった。

東京スカイツリーの展望デッキから見ると浅草は目と鼻の先。隅田川に合流する北十間川沿いを散歩して行けると思った。ところが、地上への出口がわからず右往左往。「とうきょうスカイツリー駅」から地上に出ることができたが、この一件で想定ルートを忘れ、進むべき方向がわからなくなってしまった。住居表示地図でやっと自分の現在位置と全体ルートを把握できた。忘れていたスマートフォンのアプリを起動。とりあえず川の合流地点に近い墨田区役所を目的地に設定し、道案内に従うと、小梅橋で北十間川に出ることができた。そこからはスイスイ。東京スカイツリーを振り返りながらの散歩。墨田区役所からは隅田川に沿って歩けばすぐに吾妻橋だ。この先は過去の記憶を掘り起こして歩き、雷門でゴール! 地図とスマートフォン、海馬を使っての散歩は、少し迷ったけど楽しかった!

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ヘルシスト 273号

2022年5月10日発行
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