嗅覚は視覚や聴覚と同様、加齢とともに衰えていく。ただやっかいなことに、他の感覚と異なり低下していても気づきにくく、しかも健康診断の項目にもない。しかし、嗅覚の低下は、食事がおいしくなくなったり、腐敗やガス漏れ、火事といった危険をすぐに察知できないなど、生活に支障を来す。さらに、認知症をはじめ、さまざまな病気のリスクとなるフレイルやサルコペニアと関連することもわかってきた。嗅覚の低下に早く気づき、病気予防、早期発見につなげていきたい。
特集 においの科学 「フレイル」「サルコペニア」の予防につながる「嗅覚」の維持
構成/大内ゆみ イラストレーション/千野六久
最近、嗅覚障害が新型コロナウイルス感染症の後遺症として注目されています。嗅覚障害は、においをまったく感じない、今までとは違うにおいやすべて同じにおいに感じるなどの自覚症状があり、主に副鼻腔炎などの鼻の病気が原因です。風邪など上気道のウイルスに感染し、症状が治まっても嗅覚障害が残ることもあります。
嗅覚低下は日常生活に支障を来す
また嗅覚は、視覚や聴覚と同じように加齢とともに衰えていきます。しかも、視覚や聴覚とは異なり、低下していても自分では気づきにくいのです。私たちが健康な高齢者を対象に実施した調査では、アンケートで8割以上の人が自身の嗅覚は正常だと答えたものの、実際に嗅覚検査を行うと、約6割もの人に嗅覚の低下がみられました。ここで実施した嗅覚検査は日本人になじみの深い12種類のにおいを識別するテスト(オープンエッセンス)で、12点満点中8点以上を正常、7点以下を嗅覚低下とします。自分では正常だと思っていても、1~2点だったという人もいて、自分では気づかない“隠れ嗅覚障害”が多く存在すると考えられます。
自覚症状の有無にかかわらず、嗅覚の低下は、食事がおいしくない、腐敗した食物やガス漏れ、火事の煙といった危険が察知できないなど、日常生活に大きな支障を来します。さらに嗅覚の低下は生活の質を低下させるだけではなく、認知症やさまざまな病気のリスクを高めるフレイル(詳しくは後述)と関連することが近年の研究でわかってきました。
嗅覚低下と、認知症で最多のアルツハイマー型認知症(AD)やレビー小体型認知症との関連は数十年前から指摘されていました。また、認知症と合併しやすいパーキンソン病との関連も知られています。中でも注目すべきは、ADの前段階である軽度認知障害(MCI)と嗅覚低下との関連です。ADは、突然発症するのではなく、緩やかに進行し、物忘れや抑うつ、不安などの症状が現れるMCIを経て発症に至るとされています。MCIの段階で治療を始めれば、正常な状態に戻る、あるいはADの進行を抑えられる可能性があります。
例えば、アメリカの認知機能の低下がない人を対象とした前向きコホート研究において、においの識別テストのスコアが平均よりも低い高齢者では、5年後にMCIになる確率が、スコアが平均以上の高齢者と比べて約50%も増加することが報告されています。
- * 前向きコホート研究:未来に向かって対象疾患がどのくらいの頻度で発生するかを観察する研究方法。
カレーのにおいが判断指標に
さらに、アメリカのMCI患者を対象とした前向きコホート研究では、日常生活機能に対するアンケート、嗅覚検査、言語の記憶能力検査、脳MRIによる海馬と嗅覚に関連する嗅内野の容積、の5つの指標を組み合わせた結果、嗅覚が低下している人はMCIからADに移行しやすいという結果が示されました。ここで用いられた嗅覚検査は、40種類のにおいを識別するテストで、すべて正解すると40点になります。MCIからADに移行した人は事前の検査で40点満点のうち平均25.8点と低値で、ADに移行しなかった人は平均33.2点と正常範囲でした。
以上のような研究報告から、嗅覚低下はMCIを早期発見するための指標となるのではないかと期待されています。しかし、前述したように健康でも嗅覚が低下している高齢者は多く、そのすべての人が認知症になるわけではありません。嗅覚が低下している高齢者の中でMCI、もしくはMCIからADに移行するリスクが高い人を見極める必要があります。
そこで私たちは、前述のオープンエッセンスを用いて、健常な高齢者、MCI患者、AD患者を対象に調査を行いました。結果、健常な高齢者、MCI患者とAD患者の順に、正解数が下がっていくことがわかりました(図1)。AD患者では、ほとんどにおいがわからないという嗅覚障害の患者と同程度の嗅覚低下がみられました。
さらに、におい別にみてみると、健常な高齢者のほとんどがカレーのにおいがわかるのに対して、MCI患者は約70%、AD患者では約35%しかカレーのにおいがわからないという結果でした。このことから、日本人の場合、カレーのにおいはMCIやADのリスクを判断する指標となるのではないかと考えています。
近年、認知症とともに問題視されているのが、高齢者のフレイルやサルコペニアです。フレイルとは、加齢とともに心身の活力が低下し、生活機能が障害され、身体的、精神的、社会的な衰弱や虚弱が出現した状態で、認知症や肺炎などの感染症、骨折、関節障害などが生じやすくなります。サルコペニアとは、加齢による筋肉量の減少や筋力の低下で、歩行障害など身体的フレイルの原因となります。身体的フレイルは閉じこもりといった社会的フレイルを招き、さらには抑うつや認知症などの精神的フレイルへとつながります。この悪循環をどこかで断ち切るための介入が必要です。
嗅覚低下は、食欲低下をもたらし低栄養からサルコペニアの一因となると考えられます。そこで私たちは、141人の高齢者(65歳以上)を対象に調査を行い、嗅覚低下とフレイル、サルコペニアとの関連を調べました。ここでも前述のオープンエッセンスを用いています。対象者中、フレイルは13%、サルコペニアは9%、前段階であるプレフレイルは35%、プレサルコペニアは29%でした。嗅覚低下との関係をみると、フレイルでは89%、プレフレイルでは72%、サルコペニアでも92%、プレサルコペニアで76%の人に嗅覚低下がみられました(図2)。健常な高齢者でも、やはり60%近い人に嗅覚低下がみられるものの、フレイルやサルコペニア、もしくはその前段階では嗅覚低下との関連が統計学的に有意に示されました。
味覚より嗅覚のほうが食欲低下に影響
この調査では、他の疾患とフレイル、サルコペニアとの関連もみていますが、糖尿病、高血圧、脂質異常などの生活習慣病では関連性がみられませんでした。想定外の結果だったのが、食欲低下に最も影響すると考えられる味覚障害ではフレイル、サルコペニアとの関連性が認められなかったことでした。この調査では、食べ物をおいしく味わう力「味わい力」についてもアンケートによる調査を行っていますが、味わい力の低下は味覚低下よりも嗅覚低下のほうが強く関連することもわかりました。食のおいしさは、味はもちろんのこと風味も重要であり、また味覚、つまり舌の味蕾の機能は嗅覚ほど加齢により低下しないといわれています。こうしたことから、味覚よりも嗅覚の低下のほうが食欲低下に影響を及ぼしていることが考えられます。加えて、この調査の分析では、味わい力の低下が食欲などの食に対する関心を低下させ、それが活動度の低下を招きサルコペニアにつながるという関連性も示されました。
さらに、健常な高齢者とフレイル、サルコペニアの人で、識別できないにおいの種類にも違いがあることもわかりました。サルコペニア、プレサルコペニアでは、材木、ヒノキ、焦げたニンニクのにおいの合計点が、1点以下、フレイル、プレフレイルでは墨汁、カレー、メントール、ミカンのにおいの合計点が2点以下で、これらの状態の可能性があるという分析結果でした。つまり、MCIやADと同様、識別できないにおいの種類がフレイルやサルコペニアの早期発見の指標になる可能性が考えられます。
さらに、嗅覚低下が死亡率を高めるという研究結果も多数報告されています。例えば、オーストラリアの60歳以上を対象とした前向きコホート研究では、嗅覚が正常な人の5年後の死亡率が8.3%であったのに対し、軽度の嗅覚障害の人では16.4%、中程度の嗅覚障害の人では27.4%と、障害の程度が進むにつれ高くなることが示されました。また、嗅覚が完全になくなった(嗅覚脱失)の人は嗅覚が正常な人と比べて、約4倍も5年後の死亡率が高くなるというアメリカの研究報告があります。加えてこの研究では、嗅覚脱失の人の死亡率は心不全、脳卒中、がん、糖尿病、慢性閉塞性肺疾患を持つ人よりも高いことが示されました。代表的な死因として知られている疾患より、嗅覚脱失のほうが強い死亡の危険因子とされたのは衝撃的な結果です。なぜ嗅覚脱失が死亡率と関連するかは不明ですが、認知症やフレイルなどの関与があるのではないかと推測されます。
他にも、嗅覚、聴覚、視覚の3つの感覚のうち、いずれか1つの感覚障害がある人と障害のない人を比較すると15年後の生存率が低下し、2つ以上の感覚障害があるとさらに生存率が低下するというアメリカの研究報告があります。この報告では、嗅覚障害が最も強く生存率の低下に関連していることも示されています。この結果の明確な理由はわかりませんが、視覚では眼鏡、聴覚では補聴器と機能低下を補う装置が存在するのに対し、嗅覚を補助する装置はありません。こうした点も関連しているのではないかと考えられます。
嗅覚低下が疾患のサインに
以上のような嗅覚低下に関連した現象がなぜ起こるかについては、まだ明らかになっていません。ただ重要なことは、前述したように嗅覚低下が認知症やフレイル、サルコペニアの早期発見の指標になる可能性があるということです(図3)。実際に私たちは、原因不明の嗅覚障害の高齢者を対象に、脳のMRIでにおいの情報を処理する嗅球の体積を計測、またAD特有の萎縮部位の容積を測定するソフトを用いて、MCIやADが疑われる症例に対しては、当大学病院の認知症センターで精査を行っています。
また、嗅覚を維持することが関連する疾患の予防につながると考えられます。嗅覚低下の予防には、嗅覚障害の原因となる鼻の病気があれば、しっかりと治すことが大切です。また、嗅覚を低下させる危険因子として、喫煙や動脈硬化や糖尿病などの生活習慣病が知られています。バランスの良い食生活や適度な運動はやはり大切だということでしょう。実際に、1週間に3回以上の汗をかくほどの運動が、嗅覚低下を予防するという研究報告もあります。また、私たちの調査では、嗅覚が正常な男性がよく摂っていた食品として乳製品がありました。こうした嗅覚に良い影響をもたらす食品の検討も興味深いところです。
日頃から、においを「何のにおいか」と意識して嗅ぐことも大切です。ドイツで開発された嗅覚障害の治療として、朝晩にレモンなど4種類のにおいを嗅ぐ嗅覚トレーニングがあります。鼻の中の粘膜を刺激することにより、嗅神経細胞の再生を促す効果があるとされ、高い改善効果を上げています。また、においを嗅ぐ習慣は嗅覚の低下に気づくきっかけにもなります。
現在、嗅覚障害に対する治療も進んでいます。原因疾患の治療が第一ですが、風邪や脳の外傷後の嗅覚障害には、漢方薬の当帰芍薬散が高い効果を示しています。当帰芍薬散には神経成長因子を活性化する作用があり、この神経成長因子が嗅神経細胞の再生に関与していることが私たちの研究で明らかになっています。他にも私たちの嗅覚障害外来では、前述の嗅覚トレーニングをもとに日本人に合った方法を検討しているところです。
そもそも嗅覚は、健康診断で検査されないなど軽視されている傾向にあります。私たちが調査で使用したオープンエッセンスは簡便に実施できますが、現在のところ研究用で、費用は医療機関の負担となります。今後も進む超高齢社会において、嗅覚への社会的な関心を高めることにより、嗅覚低下に気づく機会を増やし、さまざまな疾患の早期発見、ひいては予防につなげることが重要だと考えています。