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ヘルシスト 299号

2026年9月10日発行
隔月刊


日本水産養殖の原点

岸朝子(1923〜2015年)といえば、「おいしゅうございます」の一言とともに、食に関する辛口ながら的確で、なおかつ温かみのあるコメントを思い出す人もいることでしょう。

戦後の保育所もあまりない時代に、朝子は家計を助けるため、4人の幼子を抱える身で、主婦の友社の料理記者となり、その後、母校である女子栄養学園(現・日本栄養大学)の出版部で「栄養と料理」の編集長を務めるなど、60年にわたり日本の食を取材しました。

そもそも朝子が食の世界へ目を向けたのは、食べることを大切にした両親の影響だといいます。朝子の両親は沖縄出身で、家族で囲む食卓には、作物が乏しい土地に伝わる工夫した伝統料理がたびたび上りました。父・宮城新昌(1884〜1967年)は、明治30年代にアメリカに渡っての養殖を学び、日本で普及に努めた水産事業家でした。「採る漁業から育てる漁業へ」を理想に掲げ、「当時は現実離れしていると思われていた」と朝子は記していますが、「滋養のある牡蠣を、どこの家でも手軽に食べられるように」と、垂下式法という海の立体利用を考案したことで知られています。

朝子はこの父親から、「掃除や洗濯は他人に任せても、料理だけは命に関わることだから、人任せにしてはいけない」と常々言われて育ったのです。

長い記者生活で得た実感は、まさに父親の言葉を裏付けるもので、年を重ねてより一層、朝子は日々の食事に真面目に向き合うことを呼びかけました。「命は食にあり。ごはんを食べることは、生きることなんですよ」。切々とした響きが耳に残ります。


宮城新昌が1924年に考案した垂下式養殖(養蠣)は、江戸時代からの伝統的な養殖技術を近代的な大量生産技術へとつなげる画期的な発明と位置づけられています。

垂下式養殖に続く近代的な大量生産技術の端緒は、魚類(海水魚)の生け養殖によって開かれます。牡蠣やホタテなどの貝類が「垂らして育てる」方式だったのに対し、魚類は「囲って育てる」というまったく別の技術体系として発展します。それまで海水魚の養殖は事業化されていませんでした。この壁を破ったのが香川県の野網和三郎(1908〜1969年)です。野網は1928年、ハマチによる海水魚養殖に世界で初めて成功、事業化を果たします。「採る漁業から育てる漁業へ」という考え方の重要な転換点となった出来事となりました。一方、野網の生け簀養殖は、池のような天然のという特殊な地形でしか展開できない、という制約がありました。

この制約を初めて解いたのが、1954年、産業に使える形での試験が開始された近畿大学水産研究所の小割式網生け簀です。この小割式網生け簀により、海水魚養殖が特定の地形に縛られずに海面全体での展開が可能になり、本格的な大量生産化への道が開けたのです。

しかし「育てる場所」は解決しても、最初は天然の稚魚を生け簀に移して育てる「畜養」に頼らざるを得ませんでした。そこで近大水産研究所は、選抜育種・ゲノム編集による品種改良で「天然資源に依存しない完全養殖」を追求していきます。対象をマダイ→クロマグロと徐々に難度の高い魚種へ広げていき、クロマグロ研究の着手から32年後の2002年、世界初のクロマグロの完全養殖サイクルを確立。そして2026年、こちらも世界初となるノドグロの完全養殖の実現が発表されます。

「料理だけは命に関わることだから、人任せにしてはいけない」と説いた宮城が「採る漁業から育てる漁業へ」の理想を掲げてから1世紀。技術の系譜こそ異なれ、その理念は野網のハマチ養殖、近大水産研究所の小割式網生け簀、そして完全養殖へと受け継がれ、日本の水産養殖を「場所の技術」から「個体・遺伝の技術」へと段階的に近代化させてきました。

今号の特集記事の一つ「近大水産研究所が挑む完全養殖の最前線」は、まさにこの到達点を紹介しています。

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