細胞と遺伝子 第35回 インフルエンザウイルスは細胞間情報伝達で感染が促進する

イラストレーション/北澤平祐

河合香織(かわい・かおり)

ノンフィクション作家。『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。近著にアンチエイジング研究の最先端を取材した『老化は治療できるか』(文春新書)がある。

せきやくしゃみで、ほんの一部の細胞がインフルエンザウイルスに感染するが、その小さな始まりはやがて周囲へと広がっていく。こうした少数の感染部位から短期間で広がるウイルス感染のメカニズムが解明された。細胞に侵入したウイルスは、細胞間で情報のやり取りを行う「細胞同士の会話」を利用して隣接細胞のカルシウム濃度を上昇させ、感染しやすい状態に変える。このメカニズムを阻害することで感染の連鎖を遮断する、新たな治療戦略につながる可能性がある。

北海道大学大学院医学研究院細胞生理学教室准教授

藤岡容一朗(ふじおか・よういちろう)

2003年、東北大学工学部化学・バイオ学科卒業。東北大学大学院工学研究科を経て、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。2008年から北海道大学大学院医学研究科博士研究員。2015年から同研究院細胞生理学教室助教。2023年から現職。

インフルエンザウイルスは毎年多くの感染者を生み、時にパンデミックを引き起こしてきた。ワクチンや抗ウイルス薬が存在するにもかかわらず、新型株や薬剤耐性株の出現により、完全な制圧には至っていない。

ウイルスでカルシウム濃度が大きく変化

では、ウイルス感染はどのように広がるのか。これまで、ウイルスは体内のごく一部の細胞に感染することから始まり、そこから徐々に周囲へと拡大していくことは知られていた。しかし、その詳細なメカニズムは解明されていなかった。

「私たちの研究により、インフルエンザウイルスは感染した細胞を起点に『細胞同士の会話』を乗っ取り、周辺へ感染を広げていくことが明らかになりました。細胞同士が普段やり取りしている情報伝達を、ウイルスが巧みに利用していたのです」

そう語るのは、北海道大学大学院医学研究院の藤岡容一朗准教授である。2025年8月、藤岡准教授ら北海道大学を中心とした研究チームは、従来の「ウイルスが細胞に侵入して増える」という理解を超え、細胞間のシグナル伝達そのものが感染拡大の仕組みに利用されていることを可視化した成果を発表した。

この発見の背景には、10年以上にわたる研究の積み重ねがある。

「今から10年以上前になりますが、細胞にウイルスを振りかけると、細胞内のカルシウム濃度が大きく変化することを見つけました。そこで、カルシウムをブロックすると感染力が落ちるかどうかを調べたところ、見事に感染が抑えられることが分かりました。つまり、インフルエンザウイルスが感染するにはカルシウムが必須だと気づいたのです」

そして2018年、世界的に大きなインパクトを与えた研究成果を報告する。

「インフルエンザウイルスは、細胞膜にあるカルシウムチャネルというイオンを通すタンパク質に結合します。その結果、細胞の外側から内側へカルシウムが流入し、細胞内のカルシウム濃度が上昇することを発見しました。さらに、このカルシウムチャネルは臨床で広く使われる高血圧治療薬の標的でもあります。実際にヒトの肺胞や気道上皮を模した培養系で試すと、高血圧治療薬を添加することで感染が顕著に抑制されました」

この成果は世界に衝撃を与えた。それは、インフルエンザウイルスがカルシウムチャネルを侵入に重要な鍵因子として利用することを、初めて明らかにしたからだ。

「このカルシウムチャネルを薬で抑えたり、タンパク質レベルで発現量を減らしたりすると感染が抑制されることが分かりました。また、マウスにカルシウムブロッカーを飲ませても感染が抑えられる。つまり、インフルエンザウイルスの侵入にカルシウムチャネルが不可欠であることを世界で初めて示せたのです」

長年、インフルエンザウイルスがどのタンパク質を受容体として侵入するのかは謎だった。候補は数多く挙げられていたが決定的な証拠はなく、研究者の間では「60年越しの未解決問題」とされてきた。その謎を解いたのが藤岡准教授らの成果であり、細胞内カルシウム濃度の上昇が感染の鍵であることを明らかにした。

「インフルエンザウイルスは厄介で、通常なら受容体タンパク質は1種類に絞られるのに、シアル酸を持っているタンパク質なら何でも結合してしまいます 。そのため受容体の候補が多すぎて、研究者は本当に重要なタンパク質を特定できなかったのです。私たちはウイルス学の“上(ウイルス側因子)から攻める”発想ではなく、生理学的に“下(宿主細胞側因子)から攻めた”ことで答えにたどり着けました。ある意味、幸運でもあったと思います」

その後の他のグループの研究により、ヘルペスウイルスや日本脳炎ウイルスなど多くのウイルスでも、同様に細胞内カルシウムを利用して感染を促進していることが報告されてきた。

広がりきった後の状態しか見ていなかった

しかし、ここで新たな疑問が生まれた。カルシウムチャネルを介してウイルスが侵入する仕組みは理解できたものの、なぜ体内ではごく少数の細胞が感染した後に短期間で全体へと広がることができるのか——その答えはまだ見えていなかった。

この問いに迫るため、藤岡准教授らは“現実の感染”を再現する実験系に挑んだ。従来の研究は、ウイルスが細胞に侵入し、増殖して再び放出されるという「1対1の関係」に注目してきた。そのうえで、新たな視点から解析するために、これまでとは異なる過程、感染初期に注目したのだ。実際の体内環境では、せきやくしゃみに含まれる10万個ものウイルスが、3億個に上る気道上皮細胞のごくわずかな部分に届くに過ぎない。

「シャーレの上では1細胞に1個以上のウイルスが届くように設定されることが多いです。でも現実に同じ条件をつくろうとすると、せきを3000回以上浴びないと再現できません。これでは感染初期の現象を研究できない。これまで“広がりきった後”の状態しか見ていなかったのです」

感染が成立する細胞はわずかであるにもかかわらず、体内では短期間で感染が一気に拡大し、症状を引き起こす。この「現実世界の感染」と「実験室の感染」のギャップが、課題として残されていた。

そこで着想を得たのが「シンギュラリティ」という概念だ。大阪大学の永井健治教授が「生物にもシンギュラリティ(特異点)が起こる」と提唱していたことから、藤岡准教授は「感染初期にウイルス感染細胞が爆発的に増える現象をウイルス感染のシンギュラリティ現象と定義し、それを捉える実験系が必要だ」と考えた。

「ところが従来の観察系では、10個や20個程度の細胞しか見られません。それだと、ウイルスの数が少なく、細胞数が多い場合、どの細胞が感染しているのか分からない。だったら“広い視野で一度に見る”しかないと考えました」

こうして永井教授らによって開発された、100万単位の細胞を同時に観察できる超広視野高解像顕微鏡を用いた共同研究が開始した。従来の何倍もの範囲を一気に捉えることで、感染細胞と非感染細胞の「集団としての振る舞い」を追跡できるようになった。

その観察から、予想外の現象が浮かび上がった。感染細胞から周囲へと細胞内カルシウム濃度の上昇が波のように広がっていくのが見えたのである(図1)。単なる細胞内現象ではなく、細胞と細胞の間に走るシグナルが感染拡大を決定づけていたのだ。

図1 ウイルス感染で誘導される細胞間カルシウム波伝播の様子蛍光顕微鏡によって、ウイルスに感染した緑色の細胞を起点に、周囲の感染していない細胞のカルシウム濃度が上昇して赤く染まっていく様子が見られた。

「1細胞でカルシウム濃度が上昇することは私たちがすでに報告していました。だから全体的にじわじわ上がると予想していたのですが、実際に映像で見えたのはまったく違う現象でした。まるで波紋が広がるように、次々と非感染細胞に伝わっていったんです」

研究グループはこの現象を 「細胞間カルシウム波」 と名づけた。単にウイルスが隣の細胞に侵入するのではなく、感染細胞が「これから感染しやすい状態になるんだ」と伝言ゲームのように隣接細胞にメッセージを送っているかのように見えた。

「これこそが、私たちが“細胞同士の会話”と表現した現象です」

この発見は、ウイルス研究の見方を根底から覆すものだった。では、この細胞間カルシウム波伝播はどのようにして起こるのか。藤岡准教授らはその分子メカニズムの解明に挑んだ。

まさに細胞同士の会話の乗っ取り

鍵を握っていたのは、インフルエンザウイルスの M2タンパク質である。M2はイオンチャネル活性を持ち、感染細胞においてカルシウムの動態を変化させる。さらに解析を進めると、M2の働きによって感染細胞からアデノシンニリン酸(ADP)が放出されることが明らかになった。

ADPは周囲の細胞の表面にある受容体に結合し、細胞内カルシウム濃度を上昇させる。カルシウム濃度が上昇した細胞では、物質の取り込み機構である「エンドサイトーシス」が活性化する。活性化したエンドサイトーシスに乗じてウイルスは細胞に取り込まれる。こうして非感染細胞が“感染しやすい状態”に変化し、ウイルスが次々と侵入できる土壌が整えられるのである。

このADPシグナル伝播による感染促進は、まさに細胞同士の会話の乗っ取りといえる(図2)。通常なら組織の恒常性を保つために機能する細胞間コミュニケーションが、ウイルスに利用されていたのだ。

図2 インフルエンザウイルスの感染プロセス感染初期に細胞間カルシウム波伝播が発生し、シンギュラリティ現象が起こると、それをきっかけにウイルスの感染が促進される。ここでまさに「細胞同士の会話の乗っ取り」が起こっている。

さらに研究チームは、この仕組みを止める方法も試みた。ADP受容体に作用する阻害薬を用いると細胞間カルシウム波伝播の発生が阻害され、感染拡大は抑制 された。マウスを用いた動物実験でも同様の効果が確認されている。

「ADP受容体の阻害は、既存の抗ウイルス薬とはまったく異なるアプローチです。ウイルス自体を攻撃するのではなく、細胞と細胞の会話を断つことで感染の連鎖を止める。今は、創薬を目指した臨床応用に向けた研究を進めています」

生命はウイルスとともに成り立ってきた

藤岡准教授たちの日常は、顕微鏡をのぞくことから始まる。研究員や学生たちは細胞を長時間観察し、その一挙手一投足を記録していく。

「細胞も人と同じで、それぞれ顔が違うんです。最近の若いアイドルは同じ顔に見えるのに、細胞は一つひとつ違って見える。観察を続けていると、まるで会話しているような感覚になります」と藤岡准教授は語る。

藤岡准教授が最初に取り組んだ研究テーマは、東北大学工学部での光合成細菌由来膜タンパク質の熱安定性獲得機構の解明だった。温泉に生息する高温環境適応型の細菌を、常温で生きる近縁種と比較する中で、「環境に応答し、適応していく生物の仕組み」への強い関心を抱いた。

その後、東京大学大学院総合文化研究科に進み、植物を対象にRNA研究を行った。ここで出合ったのが「イメージング技術」である。顕微鏡を通して生命現象を“目で見る”ことの面白さに引かれ、以後のキャリアの軸となった。

「イメージングとは、目に見えない世界を可視化する技術です。細胞内でミトコンドリアやリソソームなど のオルガネラ(細胞小器官)がどう動くか、イオンのダイナミクスがどう変化するかも見える。酵素の活性化を蛍光で捉えるバイオセンサーを使えば、どこで反応が起きているか一目で分かります。今回のテーマである細胞間コミュニケーションも、細胞内カルシウム濃度上昇が波のように広がる様子として“見える”のです」

博士号取得後は、蛍光イメージングを専門としていた東京大学大学院医学系研究科の大場雄介博士の転勤に伴い北海道大学へ移った。研究対象は細菌、植物からヒトまで幅広い。分野を横断してきた経歴の中で、一貫して追い求めてきたのは「環境への応答と適応の仕組み」である。

さらに、研究姿勢を形づくったのは、麻布高校での経験だ。

「人と違うことをあえて選ぶことが、人生を面白くするという価値観を学び、独自の視点を大切にしてきました。人と違う方向から攻めたほうが、自分にしかできない研究につながると信じています」

藤岡准教授は、ウイルスを単なる「脅威」としては見ていない。

「病原性を持たないウイルスのほうが圧倒的に多い。むしろ感染を通じて新しい機能を獲得し、進化の推進力となった例もあります。生命はウイルスと共に成り立ってきたのです」

実際、私たちのゲノムにはかつてウイルス由来だった遺伝子配列が多く組み込まれており、胎盤形成に必須な遺伝子の一部もその一つだ。ウイルスは生命進化の「敵」であると同時に「協力者」でもあった。

こうした視点は感染症研究を超え、生命観そのものを問い直す。細胞とウイルスは対立する存在でありながら、互いの関わり合いの中で進化を続けてきたのだ。

藤岡准教授の視線は医学にとどまらない。ウイルスと細胞の相互作用の解明は、農学や獣医学、環境学にも応用できる。植物や家畜、さらには海洋生物にまで対象を広げることで、生命の普遍的なルールに迫ろうとしている。

「私たちの教室は細胞生理学教室であり、細胞の振る舞いを深く理解することで、生命のを解き明かしたい」

藤岡准教授は最後にこう強調した。

「物事を一方向から見て行き詰まったら、別の角度から見てみる。そうすれば必ず新しい景色が見えてきます。細胞やウイルスの研究は、人生の知恵をも教えてくれるんです」

(図版提供:藤岡容一朗)

この記事をシェアSHARE

  • facebook
  • line
  • mail

掲載号
THIS ISSUE

ヘルシスト 294号

2025年11月10日発行
隔月刊

特集
SPECIAL FEATURE

もっと見る