細胞と遺伝子 第38回 睡眠を誘導する「起きている状態」の履歴

イラストレーション/北澤平祐

河合香織(かわい・かおり)

ノンフィクション作家。『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。近著にアンチエイジング研究の最先端を取材した『老化は治療できるか』(文春新書)がある。

睡眠の研究には「どう眠るのか」と「なぜ眠るのか」の2つのテーマがある。そのうち「どう眠るのか」の睡眠研究は古く、睡眠を引き起こすさまざまな物質が候補に挙がってきたが、どれも決め手に欠く。そこで発想を転換し、脳が記憶する「起きている状態」の履歴が眠気を生み出しているのではないかという仮説の下、研究を重ねたところ、あるメカニズムが浮かび上がった。一方「なぜ眠るのか」の追究は、「意識とは何か」という壮大な真理の解明につながるという。

東京大学大学院医学系研究科教授

上田泰己(うえだ・ひろき)

2000年、東京大学医学部卒業。2004年、同大大学院医学系研究科修了。理化学研究所を経て、2013年から東京大学大学院医学系研究科教授。現在、理化学研究所チームリーダー、大阪大学、久留米大学、英国・オックスフォード大学、東京大学大学院情報理工学研究科システム情報学専攻で教授などを兼務。近著に『脳は眠りで大進化する』(文春新書)がある。

人生の約3分の1を占める「睡眠」。私たちはなぜ眠るのか。眠気とは一体何なのか。身近でありながら、 その本質はなお十分には解き明かされていない。そんな生命科学の大きな謎に、細胞と遺伝子の働きを網羅的に解析する「システム生物学」の手法で挑み、睡眠研究と技術開発の両面で国際的に注目されてきたのが、東京大学大学院医学系研究科の上田泰己教授である。

「小学校の高学年くらいだったと思います。最も身近な存在である『自分自身』の意味や、意識、世界といったものを考え始めたとき、不安になったのです。この捉え難いものをどうにかして分解し、理解したい。そう思い始めたのが、すべての原点かもしれません」

「脳」と「意識」に迫るため睡眠研究へ

上田教授は、研究の出発点をそう振り返る。しかし、高校生や大学生の段階で、いきなり「意識」という複雑極まりない対象にどうアプローチすればいいのか、見当もつかなかったという。

転機となったのは、1990年代半ばに世界中で加速したゲノム研究だった。

「僕が大学2年生のとき、大腸菌や酵母などのゲノムが次々と解読され、ヒトゲノムもあと10年で解けると言われ始めました。生命という連続的で捉えどころのないものが、遺伝子という離散的なもので捉えられるかもしれない。もしかすると、意識のような複雑な現象も、最終的には生命科学の延長線上で理解できるようになるのではないかと、非常に興奮したのです」

そのひらめきを胸に、上田教授は東大医学部から学外へと飛び出す。門をたたいたのは、ソニーコンピュータサイエンス研究所だった。コンピュータを用いて生命現象を解明しようとする研究に触れ、そこで体内の24時間リズムである概日時計、いわゆる体内時計の研究を始めた。その後十数年にわたり体内時計研究をけん引したのち、本来の目的であった「脳」と「意識」に迫るため、睡眠研究へと本格的にかじを切った。

睡眠研究の歴史は古い。20世紀初頭には、断眠させた動物由来の抽出物を別の動物に投与すると眠気が生じる、といった報告があり、起きている間に何かが体内に蓄積し、その「眠気のもと」が睡眠を引き起こすのではないか」と考えられてきた。これが、いわゆる「睡眠物質」仮説である。

長い間、世界中の研究者がその正体を探し続けてきた。しかし、候補となるペプチドや受容体、関連酵素を遺伝学的に取り除いても、マウスの睡眠・覚醒は期待されたほど大きくは変わらない例が相次いだ。上田教授らはそこで「まだ見つかっていない睡眠物質を探す」のではなく、「そもそも単一の睡眠物質という考え方自体が違うのではないか」と発想を転換した。

「もしかしたら睡眠物質など最初からなかったのではないか。そうではなく、覚醒していたことそのものを、脳がどこかで覚えているのではないかと考えたのです」

眠気は神経活動の履歴として蓄積される

2012年ごろ、アメリカ・ボストンでの学会の夜、上田教授は仲間とビールを飲みながら議論する中で、あるアイデアに行き着く。

「起きている間に分泌された『覚醒物質』の働きを、脳が足し算のように少しずつ蓄積して記憶する仕組みがあれば、わざわざ『睡眠物質』という別の物質を想定しなくても、睡眠のメカニズムを説明できるのではないか」

つまり、起きている状態そのものの履歴がたまることで、結果として眠気を生み出しているのではないか、という発想の転換である。

「ドーパミンやノルアドレナリンなど、よく知られている覚醒物質の中で、絶対に外せないものは何か。考え抜いた末に行き着いたのが『カルシウム』でした。神経細胞が興奮して次の細胞に情報を伝えるとき、必ず細胞内に入ってくるのがカルシウムイオンです。細胞の外と内で1万倍もの濃度差があり、単なるイオンではなく、情報を細胞内に伝える分子として働いています」

神経細胞に流入するカルシウムが睡眠の鍵を握っている。その仮説を検証するには、カルシウム関連経路を系統的に改変し、睡眠の変化を見なければならない。だが、ここには大きな壁があった。候補が1つ2つならよいが、「カルシウム関連」となると、見るべき遺伝子は一気に増える。従来型のノックアウトマウス作製では時間がかかりすぎる。そこで上田教授のチームは、効率的な遺伝子改変法と高速な睡眠評価法を組み合わせ、多数の候補遺伝子を短期間で検証できる仕組みを整えた。

その成果が大きく結実したのが2016年の研究である。上田教授らはカルシウム関連経路に注目し、複数の遺伝子改変マウスを系統的に調べることで、神経細胞内カルシウムとその下流経路が睡眠時間の制御に重要であることを示した。これは、眠気が単一の「睡眠物質」によって生まれるのではなく、覚醒中の神経活動の履歴として細胞内に蓄積される可能性を強く示す成果だった(図1)。

図1 カルシウムイオンの入り口を阻害した場合の神経細胞の活性化神経細胞の活性化が蛍光の変化で見られるマウスに、カルシウムイオンの入り口の一つであるNMDA型グルタミン酸受容体の阻害剤を投与すると、阻害剤を投与した右画像のほうが緑色が強くなり、神経が活性化された。それによりカルシウムイオンが神経細胞に流入することで眠くなり、流出することで覚醒することが分かった。

では、細胞は流入したカルシウムをどうやって「眠気」として記録しているのだろうか。ここで重要になるのが、タンパク質にリン酸という目印を付けたり外したりする、リン酸化と脱リン酸化の仕組みである。

「カルシウムに応じて、タンパク質に目印を付けていくリン酸化酵素が、眠気を蓄積させていることが分かってきました」

上田教授らはこの仕組みをさらに解明し、カムカイネース2というリン酸化酵素が眠りを誘導・維持していることを世界で初めて発見する。その後2024年にはこれとは逆に、興奮性シナプス後部位で、タンパク質リン酸化酵素であるPKAが覚醒を促進し、これに対してタンパク質脱リン酸化酵素であるPP1やカルシニューリンが睡眠を促進することも示した。リン酸化を進める側と、それを外す側がしながら睡眠・覚醒バランスを調節しているというわけだ。

「2016年に見つかったリン酸化で眠気を誘導するのとは逆の仕組みが、2024年の研究で見つかりました。カルシウムに応じて、今度はタンパク質から目印を1個ずつ消していく酵素でも眠りがつくられることが分かったのです。まとめると、脳が活動して神経細胞内にカルシウムが入ってくると、それに応じてタンパク質に目印が付与されたり、消されたりする。いわば『カウントアップ』と『カウントダウン』のような分子機構によって、細胞は眠気を数えている、というのが現在の私たちの理解です」

「寝る前にホットミルクを飲むとよく眠れる」という昔からの言い伝えがある。これについて上田教授は、「ミルク1杯で脳のカルシウム情報が劇的に変わるわけではないと思いますが、カルシウム欠乏が睡眠に悪影響を及ぼす可能性はあります。そういう意味では、先人の知恵にも理にかなった部分があるのかもしれません」と穏やかに語る。

寝る前の課題は睡眠中の脳で整理・固定される

睡眠のメカニズム、つまり「どう眠るのか」が分子レベルで見え始める一方で、「なぜ眠るのか」という役割の研究も大きく進んでいる。

古くから、睡眠を挟むと記憶が定着しやすいことは知られていた。しかし2000年代には、「起きている間に学習しすぎた情報を、寝ている間に整理し、あるいは弱めるために睡眠があるのではないか」という別の考え方も提案され、論争が続いてきた。上田教授らはこの問題について、2025年に神経細胞ネットワークの理論モデルを用いた研究を発表した。

「起きているときと寝ているとき、どちらが記憶の定着に有利なのかを理論的に調べたところ、少なくとも睡眠中のほうが、神経細胞同士のつながりを強めやすいことが見えてきました」

その鍵を握るのは、神経細胞同士の接合部であるシナプスの活動パターンの違いだ(図2)。起きているときの神経細胞は、コンサート開始前の会場のように、バラバラに発火している。これは新しい刺激を受け取ってさまざまな情報を探索するのに向いている。一方、眠っているとき、特に深い睡眠では、スタジアムで観客がウェーブをするように、神経細胞が一斉に活動して一斉に休むという同期状態を繰り返す。この同期状態は、シナプスを強化し、昼間に得た情報を既存の脳回路に組み込んでいくのに有利だと考えられる。

図2 神経ネットワークの構成とシミュレーションにより生成された睡眠・覚醒時における神経活動多くの神経細胞がつながった神経ネットワークの活動をコンピュータシミュレーションで再現したところ、覚醒時にはバラバラに発火し、睡眠時には同期してシナプス結合がより強まることが分かった。

つまり、昼は探索、夜は定着という役割分担がある。寝る直前にインプットした暗記物や課題が、睡眠中の脳で整理・固定される可能性は、細胞レベルのメカニズムから見ても十分考えられる。

上田教授自身、「難しい問題は、寝る前に定義しておくと、朝起きたときに一部が解けていることがある」と語る。若い頃は夜型で、睡眠の重要性をそこまで意識していなかったというが、現在は7時間以上の睡眠を確保するようにしている。そうすると、起きているときには見えなかったつながりが、翌朝になると見えてくることがあるのだという。眠っている間、脳は昼間に得た膨大な情報を整理し、組み替え、次の発見の足場をつくっている。睡眠を削ることは、時間を稼いでいるようでいて、実は脳の最も重要な仕事の時間を削っているのかもしれない。

先端の睡眠研究を通じて、上田教授は現代社会、特に日本人の睡眠環境に強い危機感を抱いている。

「日本は、国際比較で見ても睡眠時間が非常に短い国です。これは大人だけでなく、小学生から高校生までの子どもたちにも及んでおり、危うい状態だと思います。英国などヨーロッパで生活していると、夕方には多くの人が帰宅し、夜はブルーライトを避けて、黄色や赤みがかった暗めの照明で過ごします。脳にとって眠るための良い環境です。それに比べ、日本は夜でも街や職場が明るすぎます」

本来、睡眠は削るべき贅沢ではない。上田教授は「睡眠は生存権に関わる非常に重要なもの」だと言う。今後、ウェアラブルデバイスなどの進化によって体内時計の位相や、その人に合った睡眠タイミングをより精密に知ることが可能になっていくだろう。実際、上田教授らは子どもの睡眠実態を把握する「子ども睡眠健診」プロジェクトを進めており、睡眠の可視化と社会実装はすでに始まりつつある。

「ディープラーニングなどのAI研究でも、ネットワークに意図的に制約を入れたほうが、システム全体の頑健さが上がることがあります。人間の社会も同じです。個人の睡眠を削ることで100点のサービスを維持するのではなく、99点になってもいいから、過度に個人に依存しない仕組みをつくる。限界を超えて頑張るのではなく、睡眠という限界を前提に社会を回していくべきです」

内部の細胞を一つ残らず観察できる全細胞解析

睡眠の謎を解き明かすことは、上田教授にとって最終目的地ではない。その先にあるのは、少年時代から抱き続けてきた「自分とは何か」「意識とは何か」という究極の問いだ。

「睡眠や覚醒がどのように制御されているかは少しずつ分かってきましたが、最終的に脳がどうやって睡眠という状態や覚醒という状態をつくり出しているのかは、まだ謎に包まれています。なぜ、起きているときの神経細胞はつながりが強いのに同期せず、バラバラに活動できるのか。そこが分かれば、自由意志の基盤のようなところにも近づけるかもしれません」

この途方もない謎に挑むため、上田教授のチームは驚異的な技術も生み出してきた。脳や臓器を丸ごと透明化し、内部の細胞を一つ残らず観察できる全細胞解析技術「CUBIC」である。脳全体のどこでどのように「睡眠」という状態が生み出されているのか。その回路全体の姿を捉えるには、細胞一つひとつを丸ごと見渡せる技術が必要だった。2014年に、成体脳を透明化し1細胞解像度で観察する技術として発表され、その後は全身マウスの透明化・解析へと発展した。サンプルを試薬に浸すだけで高い再現性をもって透明化できる点も大きな特徴だった。

「マウスの脳には約1億個の細胞があります。CUBICを使えば、脳を透明にして、その細胞全体の状態を網羅的に見ることができます。意識は、大脳皮質と脳の深部にある視床との相互作用の中で支えられているのではないかと考えられています。こうした技術を使って皮質や視床の状態を観察し、分子を変えたときに睡眠や覚醒がどう変化するかを見ていけば、覚醒状態を支える脳内基盤がどこにあるのかに、かなり具体的に迫れるはずです」

ゲノム研究の衝撃から始まり、体内時計、睡眠物質仮説の再検討、カルシウムとリン酸化の発見、そして脳の透明化へ。一見すると多岐にわたる上田教授の研究だが、その根底には常に「意識とは何か」という確固たる問いが貫かれている。

「『自分とは何か』という問いには、まだ遠いかもしれません。しかし、どうやってその山を登っていけばいいのか、その道筋は確実に見え始めています」

細胞一つひとつの振る舞いと、それを記述する遺伝子。ミクロの世界の探究は今、私たちの「意識」や「心」という巨大な謎の解明へとつながろうとしている。

(図版提供:東京大学)

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ヘルシスト 297号

2026年5月10日発行
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