下水中の病原体遺伝子濃度をPCR法で定量解析する「下水サーベイランス」は、不顕性感染者の捕捉や医療機関の診療状況に左右されない点で、従来の感染症サーベイランスを補完する有効な手法として、COVID-19パンデミックで脚光を浴びた。流行ピークを約1週間先行して予測できるリードタイムは、公衆衛生行政上きわめて重要だ。大阪・関西万博での実践で有効性が実証された今、輸入感染症・薬剤耐性菌対策への応用も見据えた、全国的な社会実装の加速が急務となっている。
特集 予防医学の現在地 下水サーベイランスでピークを先行予測
構成/渡辺由子
病気がどこで、どのくらい起こっているかを数字で示す学問を「疫学」といい、「感染症の疫学」は感染症の流行が起こったときに、いつ、どこで、どのくらいの人に発生し、どのように感染したのかを調査し、感染症の発生の予防や蔓延を防止する対策に役立てるものです。実際には、感染症法で一類から五類に分類され、届け出が義務づけられている感染症について、「感染症サーベイランス」という検査・監視が行われています。
下水から病原体遺伝子を検出する最適な方法
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックでは、感染症サーベイランスの弱点を補完する方法として、「下水サーベイランス(下水疫学)」が注目されました。病原体に感染した場合、病原体は体内で増殖し、便や尿と共に体外へ排出されます。下水には、病原体そのものやそれに由来する遺伝子が含まれています。下水サーベイランスでは、下水処理場や個別施設、空港、航空機の排水から下水のサンプルを採取し、病原体の有無、病原体の遺伝子濃度などを分析し、その地域の感染状況を把握することができるのです(図1)。
(イラスト:イメージマート)
図1 下水の処理と検査プロセス下水中の病原体を検出し、感染症流行の前兆を捉え、予防に生かす下水サーベイランスでは、下水検体の処理を複数の方法で行い、培養と遺伝子増幅法(デジタルPCR法)で検査を行っている。
大阪健康安全基盤研究所では、「大阪・関西万博(2025年日本国際博覧会)」が2025年4月から開催されるため、下水サーベイランスの実施を当研究所から大阪府と大阪市に提案したことがきっかけで始まりました。大阪・関西万博は、COVID-19パンデミックに対する行動制限が解除されて以降、初めての国際的マスギャザリング(大規模イベント)で、多くの訪日客の来場も予想され、それに伴い、流行する感染症の変化や、輸入感染症に当たる麻しん(はしか)の感染拡大や、デング熱の発生も危惧されていました。そこで、開催までに下水から病原体遺伝子(RNA/DNA)を検出する最適な方法を研究。COVID-19やインフルエンザ、感染性胃腸炎(ノロウイルス)などの流行性感染症の病原体遺伝子を下水から検出して、これら感染症の流行と下水に含まれる病原体遺伝子の濃度との関係を分析できるようにして備えたのです(表1)。
国内外の大勢の入場者が見込まれたため、感染拡大した場合に重症化するなど注意すべき感染症を取り上げ、重点的に予防対策を実施した。
下水サーベイランスのメリットを述べる前に、まず感染症サーベイランスについてもう少し解説しましょう。感染症法に該当する感染症に罹患し医療機関を受診すると、診断した医師が保健所に届け出て、その情報は都道府県の感染症情報センターで集計され、さらに国立感染症研究所(現・国立健康危機管理研究機構)に送られて、全国の都道府県、市区町村ごとの集計が行われています。届け出は2種類あり、結核やチフス、破傷風など、1人でも患者が発生すると、診断したすべての医師が届け出を行う「全数把握」と、患者数が多すぎるために代表的な医療機関で集計して届け出を行う「定点把握」に区別されます。五類感染症の一部(RSウイルス感染症、感染性胃腸炎、インフルエンザ、COVID-19、急性呼吸器感染症〈Acute Respiratory Infection:ARI〉)は定点把握となっています。同じ五類感染症に属する麻しんは全数把握で、現在、海外からの訪日客による輸入感染症として国内での感染者が増加中です。
感染症サーベイランスは、医師が診断して初めてカウントされるため、「熱が出たくらいでは、病院に行かない」という人や、無症状だが感染していたという人を拾い出すことはできません。また、患者数の増減を示す流行曲線は、土曜日・日曜日・祝日・年末年始・夏季休暇等、医療機関が休診する期間になると報告数が下がりますが、流行が収まったわけではなく、単に医療機関で診断していなかったためです。
日本で下水サーベイランス導入が進まない理由
下水サーベイランスでは、デジタルPCR法で測定したRNAやDNA濃度から感染者数の推定に応用でき、さらに、ウイルスの変異株についても、下水から検出した病原体遺伝子の変異の割合も明らかにできます。つまり、下水サーベイランスは、医療機関の休診期間の影響を受けにくく、感染者の受診行動に左右されないこと、不顕性感染者も捉えられること、地域社会の感染症の流行を探知できるため、流行拡大前に対策が可能になること、下水流域人口の臨床検査費用に対して、費用対効果が高いことなどのメリットがあります。これらにより、下水サーベイランスが非常に有効であると証明され、感染症サーベイランスを補完する方法として脚光を浴びることになったのです。
海外での下水サーベイランスの社会実装は、アメリカと中国で進んでおり、特にアメリカでは全人口の約42%にあたる、約1億4100万人の居住地の下水を調査し、解析結果をウェブ上で公開しています(2026年5月21日現在)。対象となる感染症の病原微生物は、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)、インフルエンザウイルス、RSウイルスなどで、各データを公開しています。
日本では、公共的な事業として、一部の行政機関において、一部疾患の下水サーベイランスのデータが公開されているものの、まだまだ発展途上の状況です。新型コロナウイルス感染症のパンデミック時に、内閣官房の中の内閣感染症危機管理統括庁による、社会実装可能な下水サーベイランスの活用方策の実証事業として、全国で札幌市をはじめとする20の地方公共団体が参加して実証実験を行い、それぞれが報告書を公開しています。
例えば札幌市では、北海道大学の受託研究制度を利用して、感染者数と下水中のSARS-CoV-2 RNA濃度の関連性の解明と下水サーベイランスの感染状況把握等への活用の検討を目的に調査。世界保健機関(WHO)のCOVID-19パンデミックの収束宣言後も、継続して下水サーベイランスを実施中で、データを公開していますが、このようなケースは全国でもまれです。また、東京大学をはじめとする研究機関による文部科学省の科学研究費助成事業や、内閣府の日本医療研究開発機構(AMED)で、研究が行われています。
日本で下水サーベイランスの導入が一部に限られ、進まないのは、私見ではありますが、税金を投入するなどの経済的な点と、どこの管轄にするかといった点が問題だと考えています。下水道事業の管轄は汚水処理施設などにより、国土交通省・農林水産省・環境省・総務省に分かれています。一方で、感染症などの病気に関わることは厚生労働省の管轄です。いわゆる「縦割り」の問題があり、下水サーベイランスを一緒に実施する機運になりにくいと見ています。アメリカのように、広域で下水サーベイランスを実施するには、行政として下水をサンプリングし、解析するという仕組みをつくらなければなりません。
1週間程度早く流行ピークを予測できる
下水サーベイランスは、どのような感染症に対しても行えば良いというわけではなく、感染症サーベイランスで十分に把握できることを、わざわざ税金を投入して下水で検査・監視する必要はないのです。「下水サーベイランスで行う意義のある感染症は何か」を考え、社会に貢献できるようなシステムをつくり上げなければなりません。そのためには、3つの目的を明確にすることが重要だと考えています。
1つは、アメリカで実施している下水サーベイランスと同様に、流行性感染症の病原体で行う感染症サーベイランスの補完を目的にすることですが、最大のメリットは感染から発症までの潜伏期間を考慮する必要がないということです。感染症サーベイランスでは、感染してから発症するまでの潜伏期間を考慮しなければなりませんが、病原体のウイルスは発症前から体外へ排出されている可能性が指摘されており、下水サーベイランスは感染症サーベイランスよりも、感染拡大の予兆を早期に捉えることができます。
流行予測の面で、インフルエンザなどの感染症サーベイランスは、データの集計に1週間程度が必要ですが、下水サーベイランスは測定すればその時点の状況が分かります。感染症サーベイランスよりも1週間、あるいはそれ以上早くに流行ピークを予測できる可能性があり、このリードタイムを感染拡大阻止の対策に充てるなど、公衆衛生行政において非常に重要です。現在、社会実装に向け、当研究所と大阪大学の専門家と共同で、数理モデルでの予測の研究を行っています(図2)。
Murakami M, et al. Water and Environment Journal , 2026
図2 下水モニタリングによるインフルエンザ流行予測下水中のウイルスRNAを用いてインフルエンザ患者数を高い精度で予測可能にした。インフルエンザA型やB型の流行状況を区別して推定できる手法も開発。従来に比べて約1週間早く流行状況を把握できる。
COVID-19のパンデミック時に、感染患者受け入れの医療機関に対して、病床の増床を要請しましたが、いつまで、どこまで増やせばいいのかが分からず、医療現場は混乱しました。もし、流行ピークの1週間前にその予兆を把握し、流行の動向をいち早く知ることができれば、重症化するまでの約2週間のタイムラグを考慮して、医療現場の準備に役立てることができます。「病床確保をここまでやればいい」という見極めができれば、がんや交通事故など、重症患者のための病床を不必要に削らずに済みます。
2つ目は、「輸入感染症」や「新興感染症」の早期発見です。特に新興感染症については、日本で感染が確認されていない感染症が入ってきたとき、医療機関で診断される前に、下水中からいち早く検出することができると見ており、下水サーベイランスによって早期に探知し、予防対策に役立てられると考えています。
3つ目は、下水サーベイランスの本来の意義と異なりますが、「薬剤耐性菌」の調査にも適しており、当研究所でも担当部署でサーベイランスを行っています。抗菌薬等の抗微生物薬の不適正使用により、抗微生物薬が効かなくなる「薬剤耐性(Antimicrobial Resistance:AMR)」は、国内外の医療機関で大きな問題になっています。下水処理が不十分な海外の国では、薬剤耐性菌が河川に流れ、それが食材を汚染し、再びヒトへ戻るという循環が起きていて、腸管内に保菌した健康な旅行者を介して国境を越えて広がることがあり、これまでの調査でも国内では確認されることがまれな薬剤耐性菌が下水から検出されることを確認しています。
ヒトに感染するウイルスは、宿主のヒトの細胞に侵入して細胞内で増殖するので、ヒトの細胞がない下水中では、増殖はできません。しかし、薬剤耐性菌のような細菌は下水中でも増殖することができるので、例えば、下水サーベイランスで検出された薬剤耐性菌が、今、流れてきたものか、下水道管等に生息するものかを判別するのが難しく、流行性感染症の感染状況を捉える下水サーベイランスとは切り離して、研究を進める必要があります。日本は下水処理技術が非常に発達していますが、薬剤耐性菌をどの程度ブロックできているか、当研究所では調査研究を進めています。
ところで、大阪・関西万博をきっかけにスタートした大阪府・大阪市の下水サーベイランスは、もちろん国の事業ではなく、大阪府と大阪市の支援で運営し、担当部署が集まり、プロジェクトを立ち上げることができました。会期中は、下水サーベイランスだけではなく、大阪・関西万博感染症情報解析センターにおいて日々、感染症や食中毒の情報収集をし、発生したときにはすぐに対応できるよう、常に準備をしていました。約半年間の会期中に、メタンガス検出、水場や人工池でのレジオネラ属菌検出、ユスリカの大量発生がありましたが、幸いにも大きな感染症が流行することもなく、2025年10月に閉幕しました。何事もなく無事に終わり、本当に良かったです。
大阪・関西万博における下水サーベイランスの成果については、公表する予定です。また、会期中の薬剤耐性菌の問題については、興味深いデータが集まったので、論文にする予定です。
次のパンデミックに備えることが重要
下水サーベイランスの役割において重要なのは、「次のパンデミック」に備えることです。下水サーベイランスのシステムを平時から動かしておくことで、未知の病原体が入ってきたとき、すぐに切り替えて対応できます。同時に、「ゲノム解析人材」の育成も求められています。COVID-19の流行初期に、日本はなぜ検査が進まないのかと批判がありましたが、検査機器も人材も足りなかったのです。その教訓を生かし、下水サーベイランスを継続的に行うことで、検査機器を充実させ、ゲノム解析に秀でた人材の育成が同時にできると考えています。
将来的に、わが国の下水サーベイランスをどこが担うかも問題です。アメリカでは、国内外の感染症をはじめとする疾患の調査や対策を主導する、アメリカ疾病予防管理センター(Centers for Disease Control and Prevention:CDC)が担っています。日本においては、全国の自治体や主要地域にある87カ所の「地方衛生研究所(地衛研)」(2026年5月現在)が、その役割を担うべきだと考えています。感染症のパンデミックの際に、最初に行政検査を行うのは地衛研であり、中長期的な感染症の危機管理として、地衛研が下水サーベイランスを担うのが合理的だと考えています。
ただ、今の地衛研には人も予算も足りず、日々の検査に追われていて、そこまでの余力がありません。COVID-19パンデミックの反省として、人材を育て、検査機器を準備し、いざというときに切り替えられる仕組みをつくっておく必要があります。
また、下水処理能力の向上も課題です。前述した薬剤耐性菌については、WHOが主導する人と動物と環境を一体で捉える「ワンヘルス(One Health)」の概念で考える必要があります。これまで、薬剤耐性菌は「病院の中で発生するもの=院内感染」というイメージが先行してきましたが、現在では環境の問題がむしろ大きくなりました。例えば、大腸菌などの薬剤耐性菌が下水に流れ、環境を汚染し、それがまた病気として戻ってくる。この循環をどこまで遮断できるかは、下水処理技術にかかっています。日本の下水処理技術は世界トップレベルですが、「菌を殺す(殺菌)」だけでなく、オゾン処理や膜処理など、遺伝子レベルでの処理に有効な方法の研究を進めていく必要があります。
健康であることが第一で、それには環境と病気が密接に関わっています。下水サーベイランスの社会実装を進めることも含め、環境と公衆衛生がワンヘルスで協力していくことが、これからの感染症対策には不可欠だと考えています。








