気候変動は体に限らず、精神や心にも大きく影響している可能性が、経済統計学と呼ばれる学問領域でのアプローチから浮かび上がってきた。地球温暖化や自然災害は、メンタルヘルスを悪化させ、結果、うつ病などの精神疾患が増加することが示唆されている。気温の上昇に伴い犯罪率が上がるというデータもある。WHOは、気候変動がメンタルヘルスに深刻なリスクをもたらすと指摘している。気温上昇を抑制する対策とともに、心身の健康を支援する医療体制が求められる。
特集 気候変動と健康リスク 統計学で読み解く気候変動とメンタルヘルスの因果関係
文/茂木登志子
気候変動が人々のメンタルヘルスを悪化させ、そうしたメンタルヘルスの悪化によって犯罪率が増加する可能性があるという。そう指摘する論文「地球温暖化、自然災害がメンタルヘルスに与える影響の実証分析」の執筆者は、南山大学の宮崎浩伸教授で、経済統計学を専門としている経済学者だ。
健康は経済学における研究テーマの一つ
経済統計学というのは、社会的なテーマや話題になっていることを、経済データを用いてひもといていくものだ。経済学と気候変動とメンタルヘルス。そこには一体どんな関係があるのか? インタビューはそんな問いから始まった。
「社会で問題になっているようなテーマについて、主に経済データを使って実証分析を行っています。実証分析とは、データなどのエビデンスに基づいて、事象が実際にどのように起こっているのかを検証する研究手法です。以前は金融のテーマに取り組んでいましたが、現在は経済格差を中心に研究しています。そういう中で、気候変動に関わる地球温暖化や自然災害などがメンタルヘルスに影響するということに興味を持ちました」
その背景には経済学の潮流の変化がある。
「従来の経済学というと、GDP(Gross Domestic Product:国内総生産)で経済力を測るということが行われてきました」
GDPとは一定期間内に国内で新たに生み出されたモノやサービスの付加価値の総額で、国の経済活動の規模や景気動向を示す指標として用いられている。
「しかし、GDPだけで本当に国民の暮らしの豊かさが測れるのか、人々の幸福感などを豊かさの指標とすべきではないか、という議論もあります。近年は、幸福感を測る指標として健康も重要であるということで、メンタルヘルスを含む健康が、経済学における研究テーマの一つになってきています」
こうした流れとは別に、経済学と心理学を融合した新しい研究領域が生まれたという。心理学の考え方を用いて経済行動を分析する「行動経済学」や、経済学・心理学・神経科学を融合させて脳の働きが人間の経済活動における意思決定にどのように影響するのかを研究する「神経経済学」などが、そうした例に当たる。
「経済学で扱う対象が広がり、さまざまな分野との融合が進む中で、私自身は医学との融合分野に関心を抱くようになりました。特にメンタルヘルスとの関係に関心があり、経済格差がメンタルヘルスに与える影響についても実証分析を行いました。研究の結果、統計データからも経済格差がメンタルヘルスに負の影響を与えることが明らかになっています」
宮崎教授が経済格差とメンタルヘルスに続いて取り組んだテーマ、それが地球温暖化とメンタルヘルスだった。地球温暖化が人々の健康に多岐にわたる悪影響をもたらすことは、これまでに多方面から指摘されている。そしてメンタルヘルスへの影響も懸念されている。世界保健機関(WHO)が2022年に発表した「メンタルヘルスと気候変動:政策概要」と題する報告書でも、気候変動がメンタルヘルスに深刻なリスクをもたらすと指摘されている。
「地球温暖化とメンタルヘルスについて先行研究を調べると、アメリカの環境心理学などの分野で『エコロジカル・グリーフ(ecological grief:気候変動などによって生態系が失われることへの深い悲しみや喪失感)』や『エコ不安症(eco anxiety:地球環境の危機的状況に不安やストレスなどを抱えた状態)』『気候不安症(climate anxiety:気候変動に起因する不安などの感情を慢性的に抱いている状態)』などの用語に出合いました」
客観的数値で関係性を実証分析する
環境心理学とは、環境が人々の心理や行動にどう影響するかといったことを研究する分野だ。先行研究の文献を渉猟すると、エコ不安症などは幸福感にマイナスの影響を与えていること、そのマイナスの関係が特に若年層や女性、発展途上国の貧しい国の人々に見られることが指摘されていた。また、高温状態が続くとフラストレーションがたまり、攻撃的になる傾向から暴力事件が増加することや、自然災害後にはうつ病や不安、心的外傷後ストレス障害(PTSD)、薬物乱用、家庭内暴力等も増加するという指摘もあった。
だが、これらは環境心理学における研究で、気候変動に起因するハリケーンなどの被害者へのアンケートに基づくものが多く、回答者が持つ個人的な感情、経験、解釈、バイアスなどがその回答内容に影響を与えている可能性がある。
「そこで本当の因果関係というか、どのような経路でメンタルヘルスに影響を及ぼすのか、統計データを用い、客観性の高い数値で地球温暖化やそれに伴う自然災害とメンタルヘルスの関係を、日本国内を対象に回帰分析の手法で実証分析してみようと思いました」
回帰分析とは、ある「結果(分析したい目的)」(統計学:目的変数/被説明変数)に、複数の「要因(原因)」(統計学:説明変数)が、それぞれどの程度、どのように影響を与えているかを関数(数式)の形で明らかにする統計学の手法の一つだ。
しかし、メンタルヘルスの数値化は難しい。
「メンタルヘルス関係の先行研究を参考にし、メンタルヘルスの指標として、うつ病患者率と自殺死亡率、さらに犯罪率を用い、これらを統計学で言う代理変数としました」
うつ病患者率については、都道府県別うつ病患者数を県内人口で除することで、人口10 万人当たりの値を作成した。同様に、自殺率についても、都道府県別自殺者数を県内人口で除し、人口10 万人当たりの値とした。さらに、犯罪率については、都道府県別の刑法犯総数の認知件数を県内人口で除し、人口10 万人当たりの値とした(表1)。
| サンプル数 | 平均値 | 標準偏差 | |
| うつ病患者率 | 280 | 587.223 | 138.046 |
| 自殺率 | 282 | 9.590 | 4.353 |
| 犯罪率 | 141 | 666.546 | 266.313 |
| 最高気温(℃) | 141 | 3.482 | 0.050 |
| 被害総額(千円) | 141 | 15.030 | 1.926 |
| 実質県内総生産(100万円) | 141 | 15.838 | 0.854 |
『南山経済研究』第38巻1号p.52より引用
各項目のサンプル数、平均値、標準偏差(データが平均値の周辺でどれくらいばらついているかを示す指標)を記載したのが、この表だ。
こうして作成したのが図1の数式だ。目的変数(結果を表す変数で、本研究の場合はメンタルヘルスの指標)を、説明変数(原因を表す変数)を使って表している。
宮崎(2023)「地球温暖化、自然災害がメンタルヘルスに与える影響の実証分析」『南山経済研究』第38巻1号p.53より、著者の許可を得て、加筆修正のうえ転載
図1 数式
統計学的に影響を受けている
計算式で算出された結果を落とし込んだものが表2である。表の読み方を宮崎教授に説明してもらいながら、分析結果に導かれていった。
| うつ病患者率 | 自殺率 | 犯罪率 | |||
| モデル1 | モデル2 | モデル1 | モデル2 | モデル2 | |
| 定数項 | -1050.070 (3609.960) |
-1834.184 (2551.619) |
54.507 (43.034) |
31.613 (27.092) |
-1456.833 (2382.829) |
| 最高気温 | 325.876* (172.820) |
346.880** (147.131) |
0.463 (2.127) |
1.200 (1.376) |
164.385* (93.923) |
| 被害総額 | 0.954 (2.340) |
0.221 (2.108) |
0.035 (0.032) |
0.024 (0.018) |
3.6188**(1.499) |
| 県内総生産 | 29.354 (215.302) |
74.652 (161.361) |
-2.461 (2.616) |
-1.581 (1.710) |
107.104 (154.860) |
| 女性ダミー | 182.943*** (8.033) |
-7.725*** (0.089) |
|||
| 年次ダミー | YES | YES | YES | YES | YES |
| 都道府県別ダミー | YES | YES | YES | ||
| 都道府県別男女別ダミー | YES | YES | |||
| サンプル数 | 280 | 280 | 282 | 282 | 141 |
著者の許可を得て、加筆修正のうえ転載
日本国内を対象とする分析の結果、地球温暖化の影響により人々のメンタルヘルスが悪化し、その影響で犯罪率が上昇している可能性があることも明らかになった。
メンタルヘルスに関する分析モデルは、モデル1と2に分けられている。
「各都道府県レベルにおいて、男女差が見られないと仮定した場合をモデル1、男女差が見られると仮定した場合をモデル2としています」
指標の数値には、*印が付記されているところがある。
「*印は、左に記された変数が影響を与えていることが統計的に明らかになったところです」
最高気温は、うつ病患者率と犯罪率に*印が付いている。「***」は1%、「**」は5%、そして「*」は10%の有意水準を示しているという。つまり統計学的に影響を与えていると判断できるというわけである。
「最高気温がうつ病患者率の増加に影響を与えている。つまり、気温が上がるとうつ病患者が増える、ということが読み取れます」
犯罪率も同様に、気温が上がると犯罪率が上昇するということだ。
「被害総額というのは、台風や豪雨など自然災害におけるさまざまな被害の総額を指しています。犯罪率に*印が付いていますが、これは自然災害による被害が大きいと犯罪率が上がるということを統計学的に物語っています」
最高気温については、自殺率に*印が付いていない。また、被害総額では、うつ病患者率と自殺率に*印がない。
「最高気温は自殺には影響しない。被害総額はうつ病と自殺に影響しない。ここでの分析結果から、あくまで統計学的には、そう言えるということです」
女性ダミーなどの変数がある。
「数値化できない情報を0と1で表すダミー変数という統計の手法があります。これを用いて、男女差や年次差などを調べました。YESと記載されているのは、当該ダミー変数を使って差を調べてみたということを示しています」
女性ダミーの変数を見ると、モデル1において、うつ病率と自殺率に*印が見える。
「これは、『男女を比較すると、女性のほうがうつ病率は高いが、自殺率は低い』ということを統計学的に示しています」
これらの数値から、宮崎教授は次のように分析結果を総括している。
「海外の先行研究と同じく日本でも、地球温暖化の影響で人々のメンタルヘルスが悪化して、うつ病患者率が上昇している可能性があることが分かりました。また、地球温暖化によるメンタルヘルスの悪化だけでなく、自然災害から生じるメンタルヘルスの悪化により、犯罪率が上昇している可能性があります」
うつ病の医療体制を整えることが急務
宮崎教授が数年前から始めたメンタルヘルスへの経済統計学的アプローチだが、当該論文が発表されたのは2023年の6月だった。3月にすでに5月並みの気温を記録していたその年から、連続して日本国内では「30年に一度の異常な高温」という夏の猛暑が続いている。適切なエアコンの使用や脱水症・熱中症予防のセルフケアは必須であり、外出時には日傘や帽子、飲料など必携となった。気温の上昇が健康に影響を及ぼすことを人々は実体験している。イヌの散歩ができないという声や、暑くて外に出られず歩く機会が減ったという高齢者の声も聞こえる。高気温の体への影響は誰もが実感している。だが、メンタルヘルスにはどのような影響が出ているのだろうか。
「実際にどういう影響が出ているのか、医学的な経路は専門外なので、私にもよく分かりません。しかし、統計データの分析で、地球温暖化による高気温や自然災害の被害がメンタルヘルスに影響を及ぼすことは前に述べた通りです」
そして、メンタルヘルスの悪化を防ぐ対策が必要だと、宮崎教授は指摘する。
「具体的にはうつ病患者が受診できる体制を整えることが急務でしょう」
データ分析に先立って宮崎教授は、人口10万人当たりのうつ病患者数の推移を示すグラフを作成した(図2左)。これを見ると、うつ病患者数は2008年までは増加しているが、2008年から2011年にかけて減少した後、2011年以降は再び増加傾向にある。
宮崎(2023)「地球温暖化、自然災害がメンタルヘルスに与える影響の実証分析」『南山経済研究』第38巻1号p.51より引用
図2 うつ病患者数と自殺者数の推移うつ病患者数は増加していても、自殺者数は減少している。対策を講じれば極端な選択をしなくなるという証左だろう。今後はうつ病患者対策として、診療体制の支援が求められる。
「この背景には、『うつ病は誰でも罹患する可能性がある“心のかぜ”』という認識が広まったことがあるでしょう。うつ病であることを隠すことなく公表できるようになってきた。潜在的な患者数が顕在化したことも増加につながった要因の一つではないかと考えられます」
一方で、その医療体制に目を向けると課題が見えるという。
「日本は対人口比で見ると、心療内科や精神科医が足りていない状況です。治療には定期的な受診が必要ですが、実際には、受診したくても初診の予約すらなかなか取れないという問題があります。日本国内のどこにいても、誰もが、適切な治療にアクセスできるようなうつ病患者への支援体制が望まれます」
うつ病患者数の推移だけではなく、宮崎教授は人口10万人当たりの自殺者数の推移を示すグラフも作成している(図2右)。
「推移を見ると、2000年代前半は横ばい傾向でしたが、2008年以降、特に2011年からは大きく減少していることが分かります。これは2006年の自殺対策基本法の制定をはじめとして生活困窮者自立支援法やアルコール健康障害対策基本法の制定といった法的支援や相談体制の充実を図るなど、官民協働で自殺防止対策に取り組んだ結果と考えられます。対策を講じれば、効果が期待できます」
2026年の夏も全国的に平年より気温が高く、厳しい暑さになる可能性が高いと予測されている。気温上昇を抑制する地球温暖化防止対策を取ると同時に、心身の健康を支援する医療体制の整備が急がれる。









